岸辺のない海 (河出文庫 か 9-6)

著者 :
  • 河出書房新社 (2009年8月4日発売)
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本棚登録 : 171
感想 : 13

  言葉はそれ単体で自己を言い表すことができない。独立して存在することができない。
 人間の作ったものだから。律義にも、人間と全く同じで、隣接する何かとの関係性や比較をもって初めて、意味として理解され、「存在」することができる。

 こんな当然のことを再確認したのは、ともすれば忘れがちなこの命題に、一つの方向から迫っているのだなと、本作を通して感じたから。
 
 そもそも普段使いの言葉で十分コミュニケーションがとれる(とされている)のにも関わらず、どうして小説だったり、漫画だったり、絵画だったり、音楽だったり、と複雑で広範な表現をわたしたちは追い求めるのか。

 それは不十分だからだと思う。ぞれぞれの語彙は、個人的な感覚や体験に基づいて、絶えず独自の変化を遂げてその生態系を作り上げている。だから、辞書はあてにならないし、わたしたちの使っている言語は例え母国語であったとしても、全くの別言語だという見方もできる。
 
 文章のなかで、書きことばに落とし込められた話者の一人称〈ぼく〉。文章のなかで話しことばを操る彼、その自己呼称としての〈ぼく〉が、同一の事柄に対して語る構図。読んでいて、書く人でなくても自然と感じるような内外の隔たりが克明に描写にされているところが魅力だと思う。普段、無意識に殺す、自分だけの語彙。その小さな命。円滑さ、経済性というミッションを帯びたわたしたちの言葉と呼んでいる、言葉。

 まるで口にするたびに、自身の言葉が失われていくかのよう。そうした喪失感も、ビデオテープのように擦り切れてしまって、わたしたちは、無味乾燥な語彙と言語体系のなかに誘致され、監禁されてしまう。別に本書が意図するのはこんな説明ではないけれど、彼=ぼくは、まさしくこの戦場に見えない、永続的に降り注ぐ爆撃の形をとった無差別の破壊のなかを生きている。

 家庭や友人、会社員とか親であるとか、様々な社会文脈に隷属せずに、そのために断片的で孤独な自分を生きる彼の“書く”行為は、本当に生きる行為そのもので、自身の文脈を作り上げようとする営為が“書く”だと、今のところわたしは理解している。

 文書の性質で言えば、喜劇にも、悲劇にも、物語性を帯びていないのが特徴だ。中立的で、肯定でも否定でもない、他に依存しない独立独歩の文章。だから、既存の文脈にあるものに価値観を委ね、評価している傾向の強い人は理解に苦しむかもしれない。この文書にはなんら権威主義的な要素が無いし、写実のもつ複眼的で、多方向からの描写に徹している。物語として進行しないので時制もない。動いてもいなければ、止まってもいない。実際には動いていたとしても、一般の言語感覚では知覚できないところにある微動をじっくりと、もしくは一瞬で読んでしまうのも面白い。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年11月22日
読了日 : 2022年12月7日
本棚登録日 : 2022年9月21日

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