はじめたばかりの浄土真宗 (インターネット持仏堂 2)

  • 本願寺出版社 (2005年3月23日発売)
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感想 : 16
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『いきなりはじめる浄土真宗』の後編である。前編を読んでいなくとも充分に面白い。もちろん、1・2と続けて読めば、話の展開はなおよく分かる。ただ、浄土真宗の僧侶である釈氏と、レヴィナシアン内田樹の対話による浄土真宗講義を期待すると、裏切られるかも知れない。本来は、そういう展開を考えてのインターネット持仏堂開設だったようだが、二人の立ち位置の微妙なちがいが、浄土真宗の宗教的ポジションなどという狭い領域を飛び越えさせ、宗教とは何か、倫理とは何かという命題を考えさせる思いもかけない対話を生んだ。

少し前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いに、どう答えればよいのかという話題がマスコミを賑わしたことがあった。教育学者や哲学者と呼ばれる人たちが真面目に論議し、何冊か本も書かれたように覚えている。その当時、不遜にも「そんなこと当たり前だろう」と、はなから相手しないのがいちばんだと思っていた。世の中には訊くべきこと(訊いていいこと)と、そうでないことがあるのだ。

常識の分からない人間に常識を説くことのむなしさを知っている者から見れば当たり前なのだが、そういう輩に限って「なぜそれが常識って言えるのサ」と食い下がってきたりするから始末が悪い。そのあたりのややこしい事情を、いつものことだが明晰に解説してくれるのが内田センセである。その15「さらに宗教と倫理」の一章だけでも読んで損はしない。

内田は「世界の成り立ちに遅れて到着した感覚」が「宗教性」の根源にある体験だという。私たちは、自分がなぜ生まれてきたのか、どうして「いま・ここ」にいるのか満足に説明することができない。このおのれの無知と被投性の自覚が宗教の始点だ。しかし、そこから、「だからどんなふうに生きたって誰にも文句は言わせない」という道徳的アナーキズム、つまりニヒリズムまでは、あと一歩だ。

「神様に会ったことがある」という狂信者と「神なんていない」というニヒリストの「中間」に倫理の立場がある。してはいけないこと、しなければならないことの根拠は「ないようだけど、ありそう」という「決然たるあいまいさ」の中に倫理が存在する、というのが内田の考え。「倫理」は「常識」のようなものだ、と内田は言う。ただ、「常識」という言葉はとらえどころがない。時代や場所が変われば理解不能のものに過ぎない。

「常識」は普遍的な原理にはなれない。共同体の中でこそ命脈を保つが、その外では通用しない。「私にとっての『当たり前』はあなたにとっての『当たり前』ではない」。それが、「あらゆる集団がそれぞれの『当たり前』を持つのは『当たり前』のことだ」という認識を呼び寄せる。倫理というのは、身内には強制的だが、「他者」には宥和的に機能するものなのだ。だから倫理は本質的に「反-原理的」なものである。

世の中には「すべての人間は……しなければならない」と説く社会理論や政治思想が存在する。それら「原理主義的言説」は、内田によれば「節度を知らない理説」「非倫理的な思考」に区分される。その理説の論理的整合性は問わない。「正しいけれど倫理的でないこと」は、常に存在するからだ。その場合、どちらの判断枠組みに軸足を置くかは、その人間の実存的な決断に委ねるしかない、というのが内田の立場である。

こう言われてみると、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して、「そんなの常識だろ」と応えることの意味がよく分かる。子どもがそういう問いを発するときは、おのれの無知と被投性をおぼろげながら自覚しつつあるのだ。ニヒリズムに走らせるか、節度ある常識という「あいまいさ」の裡に決然と立たせるのか、答える大人の側の「倫理」観が問われているのだ。心してこたえねばなるまい。

あえて宗教とは言うまい。政治的であれ、思想的であれ、自分の正しいと考える立場を相手に押しつける原理主義が、多くの命を奪う悲惨な状況を生み、国と国との友好的な外交関係を危うくしている。アメリカ流「民主主義」の押しつけや首相の靖国参拝がそれだ。「常識」や「節度」という言葉には原理主義者の使う言説の勇ましさはない。せめては、決然と「あいまいさ」の中に立つことで、倫理的な立場というものをまっとうしたいと思うのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 対談
感想投稿日 : 2013年3月9日
読了日 : 2005年8月6日
本棚登録日 : 2013年3月9日

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