人は所詮ひとりなんだと、たとえ家族や愛する人とともにいても孤独なんだと気づいたのは小学校の高学年のときだった。宮沢賢治が好きだったので、「銀河鉄道の夜」や、「永訣の朝」の影響があったのかもしれない。決して完全に理解しあうことなどできないし、死んでいくときはひとりで死んでいくのだし、残されるものは泣きくれるばかりなのだと。そこにある孤独は避けることのできない現実だ。(おそらく)すべての人に同じようにある孤独。
しかしこの短編集で綴られる人々の孤独は、自分自身であるために、あえてしがみつくような孤独、自ら選び取り、手放さない孤独なのだ。
だから彼らは孤独であることを嘆き悲しんだりしない。
甘ったるい感傷などない、ひりつくような孤独のあり方なのだ。そういう生き方もあるのかと、痛々しい思いを抱えながら読みすすめることになる。
そして表題にもなっている最後の短編の、最後の文章にたどりついたとき、ようやく安堵の溜息をもらすのだ。9編のところどころに、とても控えめにだけれどたしかにあったやさしさが、最後の最後にここで結晶したかのようで。
”二人とも半分孤児なのだが、それ以上に彼の母親に愛情を持っていて、それは他の誰とも分かち合うことはできない。彼は、一度は離れたが、戻ってきた息子として。彼女は離れたことがなく、これからも決して離れない娘として。三人とも、孤独で悲しい人間だ。しかも、互いの悲しみを癒せはしないだろう。でも孤独を包み込む世界を、丹精こめて作っていくことはできるのだ。”(「黄金の少年、エメラルドの少女」P.243)
- 感想投稿日 : 2012年11月12日
- 読了日 : 2012年11月8日
- 本棚登録日 : 2012年11月8日
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