徹底検証 日清・日露戦争 (文春新書 828)

  • 文藝春秋 (2011年10月20日発売)
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◆ 精通した5人が語るだけあって、初耳話がちょくちょくある。

・日清戦争前の明治22年に徴兵令を変えたが、その際、夏目漱石、勝田主計、高浜虚子などは、徴兵令対象外の北海道・沖縄へ本籍を移して徴兵を逃れた。
・日清戦争の黄海海戦時に、あの有名な三景艦は実は全く役立たずだった。撃った弾はわずか3、4発らしい。理由は、身の丈以上のサイズの主砲を設置したため、撃っただけで、艦は傾き、砲は壊れる状況だったため。
・日露戦争の南山の戦い(死傷者4,300人 乃木将軍長男勝典も戦死)後に、乃木が詠んだ日本の漢詩の最後の詩「金州城外の作」
「山川草木 転(うた)た荒涼/十里風なまぐさし 新戦場/征馬前まず 人語らず/金州城外 斜陽に立つ」
・ロシアの名将マカロフ提督戦死後に、対戦国である当の日本で、追悼の提灯行列をおこない敵将の死を惜しんだ。かの石川啄木もマカロフ追悼の詩をつくっている。
・多大な犠牲を払った旅順要塞戦の天王山である、二百三高地奪取前に、旅順艦隊は事実上壊滅していた。二百三高地を占領して山頂から二十八センチ砲を港に打ち込んで撃沈したのはフィクションであり事実とは異なる。
・『坂の上の雲』のラストで好古が「奉天へ」とうめくように叫んで逝ったと書いているが、本当は「馬引け!」が末期のことばだった。その言葉も戦場ではなく、自身が校長をしていた中学校へ行くつもりでのことばとのこと。
・奉天会戦後に児玉総参謀長が極秘に一時帰国した際に、出迎えた参謀本部次長の長岡外史の顔を見るなり、児玉は「長岡ァ」と怒鳴ったが、「馬鹿かァ、お前は」という言葉は司馬さんが新たに加えたもので史実ではない。
・日本海軍による、「下瀬火薬」と「伊集院信管」は戦争において大きな貢献をしたと言われているが、実は問題点が多く、味方もこれらによってたくさん怪我をしている。山本五十六、伏見宮博恭王などもそうであった。
・日本海海戦時の軍艦「日進」では主砲4門のうち3門が砲身内自爆で砲身が折れた。
・日本海海戦において、はじめにバルチック艦隊を発見した位置が海図上の〈二〇三地点〉であった。
・かの有名な敵前大回頭の〈東郷ターン〉は、実は作戦通りではなかった。バルチック艦隊追尾中の第三艦隊「厳島」がバルチック艦隊の位置を一万メートル近く東側に間違えて報告したため、予定よりも充分な距離が取れず、結果としてやむを得ず敵の射程内でUターンすることになった。
・バルチック艦隊発見が早朝であったのに、戦闘開始が午後二時頃であった。これは何故か?
実は、主力決戦前に連合艦隊は重要な奇襲作戦を用意していた。第二戦隊の駆逐艦と水雷艇隊で〈奇襲隊〉を編成し、バルチック艦隊の目の前で連繋機雷をまく作戦であった。
・実際は中止になったがその理由は荒天によるものである。
・この奇襲作戦を念頭に置くと、かの有名な「天気晴朗なれども浪高し」の意味が一般に言われていものとは大きく変わってくる。
・本当の意味するところは、この天候では連繋機雷による奇襲作戦はできないかもしれない、そのときは正面衝突で戦わざるえを得ないという大本営への報告に他ならない。
・ここから「本日天気晴朗にシテ浪高シ」ではなく「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と書いた意味も読み取れるのではないか。
・公刊戦史に対して、脚色を廃し、事実に基づいて編纂された『極秘明治三十七、八年海戦史』というものがある。
・この極秘戦史は3組作成され、海軍大学校、軍令部、明治天皇へ献上された。太平洋戦争敗戦時に海大、軍令部では燃やしてしまい、宮中に唯一残った「極秘戦史」は昭和天皇が亡くなる直前に御下賜され、現在、防衛省図書館に所蔵されている。
・この「極秘戦史」から新しい新事実が見えてきている。
・日本海海戦では、T字戦法で戦ってはいないのに何故、T字戦法で勝ったと言われているのか?連繋機雷による奇襲作戦をカモフラージュするためと言われている。
・勝った戦争ほど後始末が悪い。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 新書
感想投稿日 : 2011年11月20日
読了日 : 2011年11月20日
本棚登録日 : 2011年11月20日

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