独立自尊: 福沢諭吉の挑戦 (中公文庫 き 34-2)

著者 :
  • 中央公論新社 (2011年2月1日発売)
4.56
  • (5)
  • (4)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 47
感想 : 3
4

2016/03/12読了。

P.63-64 「意外だったのは社会制度の方面である。ワシントンの子孫はどうしているかを問うと、誰も知らないだけでなく、ほとんど興味を持っていなかった。日本でいえば源頼朝や徳川家康に匹敵するのに、そういう家柄の意識を持っていないことに大いに感心した」
→本当にアメリカって家柄意識ないのかな・・・結構強い気もするけど

p.144「学問とはどういうものか。まず難解な字を知り、難解な文章を読み、詩や和歌を作ることは実のなき文学である。重要なのは人間普通実用の学である。読み書き、算盤から地理、物理、歴史、経済、修身など、まず日本語で用を足し、進んで西洋の文献を読むべきである。」「ただし、学問をするには分限を知ることが大切である。分限とは、責任というほどの意味である。人間は平等で自由に行動できるのだが、自由とわがままは違う。その違いは、『他人の妨げをなすとなさざるとにあり』という。それは、単に直接に他人の迷惑にならなければよいというだけのことではない。たとえ自分の金であっても、酒食に耽り放蕩を尽くすことは、社会の風紀を悪化させるから許されない。そうした公的な性格を、福澤の自由の概念は持っていた。」

P.147「人は同等なる事」が論じられている。同等とは、有様のひとしさではない。権利通義の等しいことを言う。ここで権理通義とはright つまり権利のことである。福沢はこれを最初、権利通義と訳したのである。……つまり力によって現される物事の筋道であって、身分などによって区別されず、誰にでも通用する正義、ということになる。」

P.148「国家の平等」「一身独立して一国独立する事」「『独力の気力なきものは、国を思うこと親切ならず』という。つまり、独立の気概を持ち、自分の運命を国家の運命と重ねあわせることのできるものでないと、国家のことを真剣に考えない。国家の運命を自らの運命と重ねあわせて考える個人がすなわち国民である。そういう国民が多くないと、国家は保てないのであり、依存心の強い者は国家の頼りにならない。」

P.149「物事を維持するためには力の平均が必要である。ここでいう平均が必要である。ここでいう平均とは、バランスのことである。国家においても、政府の力と人民の力とがバランスが取れていて、初めてうまくいく。」そのために重要なのは「独立の気風」。

p.151「文明は政府だけから起こってはならない。小民から起こることもない。その中間から起こらなければならない。ミドルクラスこそ文明の担い手でなければならない。」「そして現代の日本におけるミドルクラスは、学者である。しかし学者の多くは政府に走り、政府に頼って物事を成し遂げようとしている。慶応義塾では独立を失わず、学問に励み、それを実地に移し、政府の力とあいまって、日本の文明を進めなければならない」

p.154「『我が心をもって他人の身を制すべからず』」

p.166「文明論とは何か……人の精神発達の議論である。それも個人ではなく、『天下衆人』の精神発達を論ずるものである」

p.167「議論の本位……相対して重と定まり善と定まりたるもの」「議論の立脚点、目的」
p.168「議論の本位が異なれば、結論は同じでも趣旨が違うことがある。また議論の本位が違えば、お互いに極端な場合を想定して意味のない議論となることがある。こうした無用の対立を避けるためには、大いに人に交わること、社交が大切である」

p.169「西洋の文明を目的とすること」「文明開化も相対的」「野蛮、半開、文明」「文明とは……天地の法則を知るが、その中で積極的に活動し、『気風活発にして旧慣に惑溺せず』自主独立で他人の恩威に依存せず、自ら徳と智を磨き、『古を慕わず今を足れりとせず、小安に安んぜずして未来の大成を図り』」「文明の精神=人民の気風なしには文明化は意味をなさない」

p.172「『惑溺』とは、本来ある目的に対する手段であったものが、本来の目的を離れて自己目的化してしまうこと」

p.173「文明とは『人の身を安楽にして心を高尚にするをいうなり、衣食を豊かにして人品を貴くするをいうなり」それを実現するものは人の智徳、文明とは人の智徳の進歩

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 啓蒙系
感想投稿日 : 2016年3月12日
読了日 : 2016年3月12日
本棚登録日 : 2016年3月12日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする