とても分かりやすい。今まで別個に見てきた哲学が繋がって、流れが見えてきました。こういうのが読みたかった。
「全ての哲学はプラトンの注釈」と言われる訳も、ニーチェが何をしようとしたのかも分かるような気がします。
哲学を見る目がきっと変わるでしょう。
要約(自分用。細かい所の間違いは結構あるでしょう)
・哲学は西洋特有の思考方法
哲学は「存在するものの全体(自然)」について考える
→考えるため「自然」の外から眺める
「自然」の外に超自然的原理を想定
(ex純粋存在、理性、精神)
→「自然」を超自然的原理によって規定される無機的な材料とみなす
→でも、現実の自然は絶えず変化し生きている
→哲学は自然を殺して限定して否定する思考方法→自然に生きたり考えたりすることを否定
・ソクラテス以前の自然的思考
自分を「自然」の中に想定しちゃんと眺める。万物=自然
自然は自ずと「なりいでてあるもの」
・ソクラテス
以前は知識欲旺盛ぐらいの意味だった「フィロソフィア」を、無知者が知を愛することと定義
自分は知を愛するだけで、何か具体的な知は持ってない。目の前にある全てを否定。腹の底には何もないのに皮肉をいう
一節によるとダイモーン(ダイモニオン)から否定という使命を授かった?
・プラトン
自然は(外にある原理によって)「つくられてあるもの」→自然の外にある原理としてイデアを想定
机のイデア=机の理想的な姿
形相=机のイデアを魂の目で捉えた=本質(エッセンシア
質料=形相に沿って材料を加工して机をつくる=存在(エグジステンシア
・アリストテレス
「自然は自ずとなる」自然観を受け継いだが、プラトンの「自然は作られた」思考も受け継いだ
超自然的思考=形而上学=第一哲学
純粋形相=すべての可能性が実現された存在。他のすべてを自分の方に動かすから「不動の動者」
・アウグスティヌス
プラトンの2世界説を受け継ぐ。「神の国」と「地の国」。イデアは世界を作った神の理性にあった
古代キリスト教義=プラトンーアウグスティヌス主義
→後に、教会が腐敗して、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の2世界主義だと都合悪い
・トマス・アクィナス
イスラーム経由で入ってきたアリストテレス哲学を教会付属学校(schola)が研究
古代キリスト教義に代わる、アリストテレスートマス主義を創始
→2世界は繋がっているので教会が世俗に介入しても問題なし
この主義のものでは自然を有機的生命とみなす
→しかし無機的、量的にみなす考えが登場→機械論的自然観へ(数学の利用
数学は感覚から得られない→数学はどこから来た?自然の理解に数学を使っていいのか?→デカルトが解決
・デカルト
人は理性を得て、近代的自我を獲得
理性=人の中にありながら派出元は神
正しく使えば世界構造を認識できる
考えるゆえに私は存在する
この「私」は肉体ではなく、理性、精神のこと。これらは神に由来するから存在するために他の何も必要としない「実体」
精神の洞察するものだけが自然の真の姿であり、それは幾何学的に規定可能な空間的延長と機械的な物体の運動からのみなっていて、生命の質とか感覚などは無い
→理性的な認識=数学的な認識
→よって数学を自然の理解に使うのは必然。機械論的自然観と数学的自然科学の妥当性を証明
プラトン以来の超自然的思考を更新
→人間理性は自然を外から眺められる(人は自然の内に含まれない)
理性の対象になりうるものだけが真に存在する(「主観/客観」の成立)
→しかし背後には神の影響。本当に人間だけの理性を証明するのはカント
・啓蒙主義的理性
神の後見を排した人間だけの理性→神、宗教だけでなく人間理性までも批判
ベーコン、ニュートン、ロック→ヴォルテール、ディドロ
バークリー、ヒューム:理性の認識効力を否定。すべては経験から得られる
カント:理性をある範囲内に限定して効力を認めた
・カント
神のもとの理性は正しさを保証されていた→しかし人間のみの理性だと限界がある→人間理性は範囲が決まってる!
人が見る世界(現象の世界)は実際の世界(物自体)とは異なり、理性に合わせて作られている→現象の世界を理性で捉える限り、理性は間違わない
そして人が理性でものを捉える過程は普遍的に定式化可能。(ex必ず時間や空間の中で考えるなど)
人間理性は限られた範囲内で、神の後見なしに超自然的原理になった
But道徳的実践の主体である人間にも、現象世界を適用すると、その行為は必然になり、道徳的責任を問えない!→信仰や道徳の範囲内なら物自体を考えてもヨシ!
→それを「意志」と言った=理性による現象界の判断様式に左右されず、物自体の世界で"自由"に生きようとする理性のもう一つの働き
・ヘーゲル
カントが定めた理性の有限性を越えようとした
人間理性(精神)は世界と関わることで互いに影響し合う→弁証法的な相互の働きかけ(労働)を通じて、理性は自分に歯向かってくる世界を精神が望む姿に変えていく(exフランス革命
→物自体も思い通りに変革できる
世界が完全に精神の望む姿になった時、精神は自由になる(絶対精神))
→人間理性の超自然的原理化の完成
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
・理性主義(理性万歳!の態度)への不信
資本主義体制による搾取、フランス革命後の腐敗。理性は世界を合理的に変革できないのでは?
・ニーチェ
プラトン以来の西洋哲学を否定(アンチプラトニズム=反哲学)
カントの「意志」をショーペンハウアーを通して受け継ぎ、意志=生への無方向の欲望、衝動とした。理性よりも意志のほうが重要!
デュオニソス的な無方向な生命衝動とソクラテス以前自然哲学の「生きて生成する」一定方向に進む生命衝動を融合した
→「力への意志」=より大きな意志を目指して、計算高くがむしゃらに動くもの(ダーウィニズムの影響)
現代はニヒリズム(無価値)の時代→なぜなら世界に意味を与える超自然的原理が力を失ったから(神は死せり)
なぜ神は死んだか?
→ありもしない超自然的原理をなんとか見つけようとして、本来の生を抑圧してきたから
ニヒルから抜け出すにはもっとニヒルになれ!(超自然的原理を徹底的に否定しろ)
ニヒルの解決法
今までのプラトン的自然価値を破壊して、新しい自然の価値を設定する
→生きた自然に内在する「生(力への意志)」が自然の価値
価値=生の機能の1つ。すでに生が到達した現段階を確かめ、その高揚する先を見つめるための目安のこと。
(まるで生が一方向に進んでいるかのような言い様)
認識、真理は現状維持の生の機能である
真理=生が現段階を確保し、安定して持続するために人間が捏造したもの。
本当は生々流転する世界を無理に固定した
→その固定するという働きが認識
より大きい生と今を比べる機能
=芸術(夢、陶酔に由来する生命そのものの衝動を表す)
芸術の価値を表すのは美
精神より肉体を重視
芸術が生まれるのは肉体から→精神界の超自然的原理よりも肉体を通して自然即現実を捉える
永劫回帰
「力への意志」では、存在するものすべてが何かを目指すのではなく、結局自分に戻る
限界
ニーチェは生々流転(絶えず変化する)自然(存在)を目指しながらも、存在のあり方を「である」と「がある」に決めてしまっている
→存在をありのまま見てない
・ハイデガー 存在について考察
フッサールから現象学を学ぶ
アリストテレス以降の哲学は存在を「作られたもの」(被造物)とみなす
しかし自然は「なりいでてあるもの」(生成)→ソクラテス以前の自然観を重視
存在と時間は密接に関係→ただ時間に流されて存在するor積極的に立ち向かっていく
- 感想投稿日 : 2022年1月24日
- 読了日 : 2022年1月24日
- 本棚登録日 : 2022年1月1日
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