・伊藤整「生物祭」
父の病状の悪化で実家に戻ったものの、まわりの風景はすっかり春で花や鳥が謳う。生殖の季節を女の粘液とかける比喩が直截で好きだ。死と生のコントラストが鮮やかでよい。
「鶯の谷渡り」ってなにかと思って調べたら、鶯の「ケキョ、ケキョ、ケキョ、」というのは雄が縄張りを主張すること、と。
それからエッチぃ意味もあって、これは女の身体をせわしなく接吻しまくることだとか。四十八手にあるのだってさ。へー。
・横光利一「春は馬車に乗って」
これも似たような話だが、もう見込みのない妻の病状を看病する夫の話。妻は夫を遊びに行きたがるとか、仕事に夢中になるとかいってなじる。夫は理屈をつけて批判を交わし、本当のところはふたりの心は通じるように思える。死の淵にありながらも、どこにでもある男女のいつもの光景…。
寝床から起き上がることのできない妻に、臓物やとりたての魚介類の説明をする夫のユーモアに愛を感じる。
・福永武彦「廃市」
いまはなき思い出の中の水の都。町中を運河が走り、どこにいても川のせせらぎの音が耳に入る。幻想的、という言葉がぴったりする。
しかし福永武彦の小説はいまいちしっくりこない。
効果を狙いすぎるというか、破局やその後の展開が予兆されているような書き方が一枚のすでに出来上がった絵を見ているような気分にさせる。
クラシックのように小説を書いたということだから、あるいは予定調和というのも美学なのかもしれんが。
なんか古臭く感じる。
読書状況:読み終わった
公開設定:公開
カテゴリ:
小説(日本)
- 感想投稿日 : 2013年7月20日
- 読了日 : 2013年7月20日
- 本棚登録日 : 2013年7月20日
みんなの感想をみる