江戸の不動産 (文春新書 1210)

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  • 文藝春秋 (2019年3月20日発売)
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江戸時代の江戸の土地取引について調査し、まとめたもの。土地活用の実態についても詳しく述べられており、役立った。
「江戸は「武家地」が約7割」p5
「日本橋と神田が代表的な町人地」p7
「(明暦の大火)鎮火したのは出火から三日目で、江戸の6割が焼失した。焼死者も10万人を越えたとされる」p26
「江戸は荷物を置く場所が不足していた」p40
「表向きは賃借という形だが、事実上、幕府から拝領した土地を売却してしまった御家人も少なくなかった」p70
「(御家人 山本正恒)小高の小役人又は同朋坊主衆の如きは町屋敷を賜り、之を町人に貸付、自分は組屋敷等の地所を借り居住」p73
「(奥右筆組頭 大沢弥三郎)地価総額が8630両もの町人地を所有しており、年間の手取りが300両以上あった。大沢は自家の土蔵が傾くぐらいの金を溜め込んだという」p82
「享保6年(1721)に町奉行所は町人の人口調査を実施し、50万1394人という数字を得た。武家の人口は同じく50万人ぐらいと推定されており、この時期、江戸は百万都市に成長する」p96
「裏店借たちが住んだ集合住宅の長屋は、俗に「九尺二間の裏長屋」と称される。間口が九尺(約2.7m)奥行が二間(約3.6m)で、その広さは六畳ほどとなる。六畳のうち土間が一畳半で、残りの四畳半が板の間だった。板の間には畳が敷かれる場合もあった。こうした長屋はプレハブ住宅のような画一化された簡素な造りだったが、それには理由がある。江戸は火災が多発する都市だった。建屋は絶えず焼失のリスクにさらされていたことから、建築費をかけても無駄となる可能性が高い。そこで建設費を安く抑えるため、簡素な建物となった」p98
「(三井財閥)三井家は伊勢松坂の出身だが、延宝元年(1673)に江戸へ進出。江戸の町人地の一等地を購入して商売の拠点とした。当初、呉服街の本町(中央区日本橋本町)で呉服屋を開店したが、後に隣町の駿河町(中央区日本橋室町)に移転する。次いで現在の銀行にあたる両替商もはじめ、江戸を代表する豪商へ成長していく」p116
「(市島謙吉)旧幕時代には諸藩から江戸に参勤交代したために、八百八町の繁栄は現出したのだが、今やそれら諸藩は、領地へ退出して、東京は空虚となり、非常に荒廃して、帝都の前途もどうかと危ぶまれるばかりであった。これゆえ、土地などは、ほとんど無価値同様であった」p193
「政府は、丸の内を払い下げ、その売却費を兵舎の建設費にあてるとともに、払い下げを受けた者に跡地を整備させようと目論む。だが問題は、誰に買い取らせて、丸の内を市街地として整備させるかであった。できるだけ高く買わせたうえに、自力で跡地を整備させようという虫の良い計画であるから、その思惑通りに進むかは極めて不透明であった。政府は渋沢栄一をはじめ有力な財界人に交渉するが、当然ながら難航する。やむなく入札となったが、政府の希望価格には、ほど遠い額だった。政府も極度の財政難で、兵舎の建設費が捻出できないという事情もあった。窮した時の大蔵大臣 松方正義は、三菱を率いる岩崎や之助に対し、政府の言い値での買取を求める。相場の二倍から三倍だったという」p196
「(福沢諭吉が三田の土地を東京府から購入)正味1万4000坪、土地は高燥にして平面、海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳なり、義塾一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかしお払い下げの原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の欲張り、時節を待って千倍にも二千倍にもしてやろうと、若い塾員たちはりきんでいます」p205

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2019年10月9日
読了日 : 2019年10月9日
本棚登録日 : 2019年10月9日

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