今西氏の地図深読みシリーズ第3弾、鉄道編。
青函トンネルや丹奈トンネル、日本のループ線やスイッチバック鉄道の歴史、未成線や廃線、外国の植民地での鉄道、など地図と資料で丁寧に解説。
第4章の、その「鉄道」はなぜそこにあるのか、がおもしろい。
一関から大船渡までの「大船渡線」は途中、猊鼻渓あたりで逆Uの字に大きく迂回している。これだけで何分余計にかかるやら、と現在の我々は思う。氏によると、大正10年に途中まで開通したが、敷設場所をめぐってはその地出身の国会議員の意向があった。つまりおらが村に鉄道を通したい。そして現在は目的地までいかに速く行くか、が主眼になるが、当時にあっては時間ではなく、くまなく鉄道を通し、沿線住民の便を図る、ことが重要だった、とあった。これはなるほど、明治大正にあっては、そうだったのかな、と目からうろこだった。
もうひとつ、最大の発見!
「宿場の人たちが鉄道に反対したのは事実か」である。
・・今は否定されているという。
明治期、鉄道が通ると鶏が卵を産まなくなる、とかで江戸時代からの宿場町の人は鉄道通過を反対した、という「鉄道忌避伝説」なるものが全国にあるというのだ。実は我が町も反対したので鉄道は通らず、結果隣町がずんずん大きくなってしまい、今頃悔しがるか・・ という・・ 全国にこういう伝説があったとは知らなかった。我が町だけかと思っていた。
まず、新宿から八王子までの中央線(甲武鉄道)。「調布市百年史」(1968)には、「明治20年代・・沿線の強い反対によって、現在の位置に変更され、明治22年に新宿-立川間に通じた。もし甲武鉄道が調布を通っていたら、今日の様相はかなりかわったものとなっていたであろう」とある。多摩地方では常識のようなものとして浸透しているという。が今尾氏は、もともと甲武鉄道が玉川上水の築堤上に馬車鉄道を走らせる計画が蒸気鉄道に変化した経緯があり、計画時点で甲州街道沿い(調布、府中)に計画する文書が発見されていない、府中の旧名主の日記に鉄道のことが一切無い。反対運動があれば書いただろう。これらから野原の真ん中の一直線コースは鉄道として理想的であり、明治27年の調布の地図が載せてあり、今とは大違いで沿線に一列の甲州街道の宿場の家があるのみ、バックに人家は無い状態。東京から八王子を目指す鉄道がわざわざ調布や府中に立ち寄る必要性が乏しかったのがわかる、とある。
「鉄道忌避伝説の謎」青木栄一著(2006吉川弘文館)があるというので、読んでみたい。
2022.9.15発行 図書館
- 感想投稿日 : 2022年12月5日
- 読了日 : 2022年12月5日
- 本棚登録日 : 2022年12月4日
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