ケルト 再生の思想――ハロウィンからの生命循環: ハロウィンからの生命循環 (ちくま新書)

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  • 筑摩書房 (2017年10月5日発売)
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ハロウィンってなんでカボチャなんだろう。メキシコの死者の日とも似てるよね、と思っていたところ、@ westmountainbooksさんがこちらを紹介していたので読んでみました。

ハロウィンはもともとケルトの祭サウィンが起源で、11月1日を境に「光の半年」から「闇の半年」へと移行し、前夜である10月31日には光と闇、あの世とこの世、生と死が混ざり合う、という冒頭からもうワクワク。

冬の祭サウィン(11月1日)から始まり、春の祭インボルク(2月1日)、夏の祭ベルティネ(5月1日)、秋の祭ルーナサ(8月1日)とケルトの4つの季節祭をとおして、一年のサイクルと循環する生命の思想が解説されていますが、「帰ってくる死者を供養する」のは日本のお盆と同じで、そのほか、お正月飾りやナマハゲやら日本とケルトの民間伝承に近いものがあるのがおもしろいです。

自然崇拝が根底にあり、農業を中心とした暦だから基本的な思想が似てくるのか、なんだかすごく共感できる。ケルトをとおして日本的な考え方を再発見します。

おもしろすぎて引用が長すぎますが、エンターテイメント化してしまったハロウィンの原点を知ることのできる良書です。


以下、引用。

ケルトの暦の「新年」は、今日の太陰太陽暦の十一月一日に当たる、厳しい「冬の始まり」の第一日目とされた。前夜の大晦日、十月三十一日の日没から始まる「サウィン」の夜に、それまでの一年の「旧い時」と、来るべき「新しい時」とが、うねりを起こし、混ざり合う。ふだんは「死と生」を隔てている壁が破られ、「あの世とこの世」の間の扉が開かれ、「祖先」と、親しい「死者たち」が、この世に戻ってくると信じられた。
すなわち「サウィン」は、祖先の霊や親しかった死者を、家に招き入れて、もてなし、静かに供養する、冬の始まりの夜だった。
この時期、太陽のエネルギーは極端に弱まり、「光の半年」が終わって、死の季節である「闇の半年」へと反転すると、人々は考えた。大自然の生命力が「光から闇へ転じてしまう説目」がこの時であり、死者はこの世に戻ってくるという信仰が、「サウィン」の暦が生まれる大元にあった。

農耕牧畜を営むケルトの人々は、一年のサイクルをはかり、順に巡ってくる「冬・春・夏・秋」という「四つの季節祭」の暦を生きていた。「冬のついたち=サウィン」「春のついたち=インボルク」「夏のついたち=ベルティネ」「秋のついたち=ルーナサ/ラマス」という「四つの季節祭」を、大自然の「生命循環の周期」の説目と考えた。人々はそれに添って生き、「生まれて死ぬ」という直線のストーリーではなく、大自然に学び、「死から再生する生」という「生命循環」のヴィジョンをケルトの知としてつくりあげてきた。

古代中世を生き抜いた人々は、「死から立ち上る生が、最も強く豊かな生である」ことを身をもって知っていた。

レイ・ブラッドベリ『ハロウィンがやってきた』

「ハロウィン」で子どもたちが亡霊の仮装をして各戸を訪れ、ねだる「お菓子」とは、死者たちを供養するためのごちそうのことだったのである。

そもそも人類史においてお菓子の起源は「供物」であった。訪れた霊・精霊・神々と共に、それをいただくのが、祭における「宴」の起源でもあった。

子どもたちが死者の格好をするのは、彼らが大人よりも純粋な魂のもちぬしであるがゆえで、死者の霊魂の化身として、家々にやってくるのである。

神の子イエスの降誕日は、聖書には書かれていない。にもかかわらず、カトリック教会は、太古から北半球のユーロ=アジア世界で祝われてきた「冬至(ユール)」の祭日の近くに「クリスマス」の日月を定めた。異教の冬至祭は「光の蘇り」を祝うものであり、そこに「光の子の誕生」を重ね、異教の慣習に寄り添ったともいえる。それと同様で、本来異教ケルトの新年である「十一月一日」を、キリスト教に貢献した殉教者や諸聖人の日、万「聖」節としたことは、「冬至」を「クリスマス」としたことと同じ発想があったのかもしれない。

現代の「ハロウィン」になくてはならない、カボチャのお化け、カボチャを刳りぬいて内側にキャンドルを灯す「ジャック・オー・ランタン」。その起こりは、男が成仏できず悪魔にもらった火種を携えて、彷徨っていたというブリテン諸島の伝承にある。

しかし村人たちは、こうした死者を亡霊として忌避しなかった。死者が成仏できる道を照らす灯として、ランタンを作った。

このランタンは、19世紀アメリカへ大量に移民したアイルランド人が、豊富なカボチャを用いて一八四〇年代以降広まっていくが、元は「白カブ」を刳りぬいて作られ、発祥はアイルランドといわれている。

農耕牧畜の共同体は、実際の一年の営みを、大自然の生命力の「周期」に添って、収穫物を育てるための「光の半年」のゾーンと、それを備蓄し春まで越冬しなければならない厳しい「闇の半年」のゾーンの二季に分け、その明暗が反転する日を、「サモニオス」という名で記していた。

「ワイルド・ハント」とは、冬の入り口から吹きすさぶ北ヨーロッパの木枯らしに乗って、恐ろしい神々や、死んだ戦士や英雄によっておこなわれる「死のハンティング」であり、冬至を待たずにサウィンから始まると考えられた。

「人間は死ぬが、私たちの死とともに、その死も死ぬ」(ブラッドベリ)

オーストリア、ドイツ、ポーランドでは十二月五日ごろからクリスマスにかけて、「クランプス」と呼ばれる「悪鬼」が現れる。その姿は「半人半山羊」の姿で、全身は獣毛で被われている。十代後半から四十歳ぐらいの男たちの隊列(クランプス・パス)が家々を廻る。人間に襲いかかり、行儀の悪い子どもをみつけるとお尻を叩き、親から取り上げることもある(わが国、秋田・男鹿半島の「ナマハゲ」のユーロ=アジア性がここにもみえてくる)。

スウィフトは、アングロ=アイリッシュの出自で、イングランドのプロテスタンティズムの政治的権威と、アイルランドのカトリック信仰社会との間で立ち回り、諷刺文学から、真剣な訴状テキストまで、常に世の中の支配の中枢へ向けて毒気のある諷刺を噴射し続けた。

スウィフト、ジョイス、ベケット
「アイルランドの文学に現れた時間意識においては、死は終わりではなく、過去となった死者が過去から現在へ、つまり死の世界から生の世界へ回帰できる」と考えられ、その「回遊性」が一貫して語られてきたと指摘している。
松岡利次『アイルランドの文学精神』

インボルク祭の徴である「聖ブリギッドの十字架」
それらは日本の緑の松の正月飾りと、立春に飾る柊の両方を思わせて懐かしい。

アイルランド文学「航海譚」
『ブランの航海』『マルドウィーンの航海』
それは生者の世界と、死者や霊がいるあちら側の世界が、対立しているのではなく、接触し、一枚の皮膜で繋がっていることを告げてくる。

アイルランドにおける妖精塚は、ファンタジーの産物ではなく、そこは「サウィン」に蘇る「死者たち」が生きる地下世界のスポットであり、

家の炉で一家の健康を守り食事を用意する生命の守り手は、血縁ではない「嫁」「義理の娘」に課すという古代中世の実際の慣習がこの語に刻まれていると思われる。

ドイツ、スウェーデン、フィンランド、エストニアなど中欧や北欧では、「五月一日の前夜」に「ワルプルギスの夜」を迎える。魔女たちが宴を催すとされ、これはケルトのベルティネにおいて「妖精たち」の活動が活発化するという民間伝承と呼応している。

「ワルプルギスの夜」が開けると、自然のエネルギーが朝日とともに現れ、世界がバランスを取り戻し、再生する。

シェイクスピア『真夏の夜の夢』
森で起こるこの「カオスからバランスへと再生する物語」は「五月一日」の「ベルティネ」の前夜、「四月三十日」の夜から夜明けまでの物語なのである。

大自然が渦巻く冬の「サウィン」と対角線上にあるのは夏至ではなく、「ベルティネ」の祭日である。

前夜や早朝から男女が大勢で森へ入って、おそらく、あるカップルたちはそこで過ごした。
果ては百人にものぼる乙女の内、「元のままの清い身体で戻ってくるのは、せいぜい三分の一」ほどであった。

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のジュリエットの誕生日は、なんと「ラマスの前夜(イヴ)」である。
「ラマスのイヴ」とは、八月一日のラマス当日の夜のことではなく、もちろんその前夜を指している。

日本の「大黒天」、それは七福神の一柱、元はインド=ヨーロッパ語族のインドにおけるヒンドゥー教のシヴァ神の化身「マハーカーラ」が、インド密教に取り入れられ、大国主のミコトと習合した神である。

英語の「イリュミネーション」の語源はラテン語で「闇に光を入れる」からきている。

ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』
『ブレンダンとケルズの秘密』

フランク・ロイド・ライト
ウェールズに母方の祖先をもつケルト系の建築家・デザイナー

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年10月27日
読了日 : 2021年10月19日
本棚登録日 : 2021年10月19日

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