回復する人間 (エクス・リブリス)

  • 白水社 (2019年5月28日発売)
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感想 : 34
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ハン・ガン5冊め。ほぼ一年前に『すべての、白いものたちの』を読んだのが最初なので、よいペースだと思う。

彼女の作品に共通して感じるのが「何かを失った人の孤独」。『回復する人間』はまさに「喪失と回復」がテーマの短編集。しかし、再生の物語にありがちな生やさしさはなく、永遠に失ってしまったものへの諦念、必死になって立ち上がろうとする壮絶さ、ギリギリのところで生きていくことを選択する人の強さを感じます。

木に対するシンパシー、夜明けに綱をもって家を出る話は『菜食主義者』にもでてきます。

『青い石』のガラスのように壊れそうな2人の物語がよかったので、これをもとにした長編『風が吹く、行け』も読んでみたい。

コロナを言い訳にいろいろ停滞してしまっている私ですが、そろそろゆっくりでも前に進まなくてはという気分になりました。


以下、引用。

空は青く、冷たい陽射しが梢の輪郭を包んでいる。しばらく頭をそらして見上げているうちに、自分がそれらを美しいと感じていることに気づく。冷酷なほど完全に、ウニ姉さんのことを忘れていたと気づく。

地下道の出口で彼女が出社する後ろ姿を見たことがあったが、忙しく行き交う人々のあいだで、彼女はまるで散歩に出てきた人みたいにゆっくりと、壊れやすい沈黙を保護しているかのような慎重な足取りで階段を上っていた。

人を燃やすときいちばん最後まで燃えるのが何かわかる? 心臓だよ。夜に火をつけた体は一晩じゅう燃えてるんだ。明け方に行ってみたら、心臓だけが残ってて、じりじり、煮えてたの。

その瞬間気づいた。何気なく打ち明けたその夢が、どんなに赤裸々な告白だったかということに。今私がいる地点が、午後三時だということに。もう時間が残されていないということに。一度しかない一日をぎゅっと握りしめたまま、どうしたらいいのかわからず、握りつぶしてきてしまったのだということに。

イナは二十三歳の冬から約六年間結婚生活をしていたが、二千日を越えるその期間中ほとんど毎日料理をしたので、残りの人生は最小限の料理だけで生きていくと決めていた。

あたしさ、最近、フラクタルに関する本、読んでるんだけどね。もうびっくりしちゃった。あたしたちの体の中で血管が広がっていくときの線も、川に支流ができて広がっていくときの線も、木が空に向かって枝を伸ばしていくときの線もみんな似てるっていうんだもん。地下鉄の出口から人波が広がっていくときも、同じような線を描くんだってよ。だったら、もしかして人の人生もそうなのかな? 空間じゃなくてさ、時間の中でよ、あたしたちの人生が、何らかの数学的な線……幾何学的に推測可能な線に沿って、進んでるのかな? って、地下鉄の出口から出るたびにそんなことを考えるようになったんだ。

十六歳の冬、私が初めて墨で描いた木のことを覚えていますか。その木は君に似ているね、とあなたが言ったのを私は覚えています。そしてあなたは、君が描く何もかもが実は君の自画像なんだとつけ加えましたね。あの日の午後ずっと、あなたの本棚を探して木の絵を見ていました。エゴン・シーレが描いたひ弱そうな若木の絵を見つけたとき、あなたの言葉をおぼろげに理解しました。すべての絵が自画像なら、木の絵は人間が描きうるいちばん静かな自画像だという思いも、そのときちらりとよぎりました。

戦って、勝たなくちゃ。それでこそ絵が描ける。

女の人に月経があるということ、血を流して子どもを産むということって、考えてみると驚異的だ。つまり、生命はいつも血の中から始まるってことなんだろうね。

私、たぶん、逆方向に年を取ってるんだと思う。二十代のころは、職場とか貯金とか、家とか家族とか、年齢に応じて何を持ってなきゃいけないかって、そんなことで頭の中がいっぱいだったの。だけど今はむしろ、自分のものなんてないんだと思うわ。時間もお金も人生も……みんな誰かからしばらく借りて使っているんじゃないのかな。

あの人はこんな人ではなかった。基本的に繊細で優しい人だった。だが、すり減った。タイヤがすり減るように、あれやこれやを体で受け止めつづけるうちに。彼と私だけがそうなのではないだろう。誰もがそのようにして少しずつ、すり減っているとは意識しないままに少しずつすり減り、車輪が滑りやすくなっていく。滑って、滑って、ある朝突然ブレーキがきかなくなる。

「私という人間がときにはよちよち歩きで、ときにはひるまず強く、ときには闇の中をようやく手探りで歩いて生きてきた記録」

痛みがあってこそ回復がある。これこそが、本書を貫く大きなテーマである。

文芸評論家シン・ヒョンチョルの言葉を借りれば「この本の関心事は、ほかの読み方をすることが困難なほどはっきりしている。それは〈傷と回復〉だ」ということになる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年9月28日
読了日 : 2020年9月27日
本棚登録日 : 2020年9月27日

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