なにも願わない手を合わせる (文春文庫 ふ 10-4)

著者 :
  • 文藝春秋 (2006年10月6日発売)
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感想 : 12
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藤原新也(1944年~)氏は、現・北九州市に生まれ、東京藝大中退後、インド、東南アジア、アフリカ、アメリカなどを放浪し、写真・エッセイ集を発表。1972年発表のデビュー作『印度放浪』は青年層のバイブル的な存在となり、1981年の『全東洋街道』で毎日芸術賞を受賞、1983年の『東京漂流』は、大宅壮一ノンフィクション賞及び日本ノンフィクション賞に推されたが、辞退した。同年に発表された『メメント・モリ』(ラテン語で“死を想え”)は、隣り合わせの死と生を考えさせる代表作である。
私にとって藤原氏は、三指に入る好みの(写真などを含む広い意味での)書き手・表現者で、これまで、上記の作品のほか、『日々の一滴』、『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』、『たとえ明日世界が滅びようとも』、『祈り』等、数々の作品を手にしてきたが、本書は既に絶版になっており、たまたま新古書店で見つけて入手した。
本書は、59歳で亡くなった兄の供養のために四国霊場八十八ヵ所を巡り、そこで出会った出来事や考えたこと、及び、それまでの人生や旅において接した数多くの「死」についての想いを綴ったもので、2003年に出版、2006に文庫化された。
藤原氏は、インドやチベットを長く放浪し、父と母が亡くなった際にも四国巡りを行っているというが、今回の旅の途中で、「祈る」という行為について、それが、愛する者の供養のためであれ、煩悩や執着心からの解放を望むためであれ、畢竟、「○○のために祈る」、即ち自己救済の行為の一つであることに気付き、「自己救済の祈りから解放されたいと思うようになった」と書いている。(その違和感は、これまでずっと抱き続けていたものなのだろう)
そして、青龍寺(三十六番札所)で、両親に連れられた幼女の、無心にして、なお全感覚で目の前の世界を感じているであろう「祈り」、大人の「祈り」とは分かち難い「(自己救済の)願い」を一切含まない純粋な「祈り」に出逢い、本来あるべき「祈り」の姿とは、「なにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる。」ということだと思い至る。
更に、数々の野辺の地蔵を見るうちに、旅を終えて俗世間に戻ったときに、どのような他者の不安や心の荒廃をも受け止め得る「海のような自分になりたい。」と祈るようになるのである。
本エッセイ集に書かれているのは、藤原氏が向かい合った、人の死や別れに関わる個別の場面であるが、我々は、その一つ一つを読みながら、他者の生や死といかに対すべきかを、自ずと考えることになる。。。
時を置いて再読したいと思う一冊である。
(2022年11月了)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年11月30日
読了日 : 2022年12月5日
本棚登録日 : 2022年10月15日

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