グロテスク 下 (文春文庫 き 19-10)

著者 :
  • 文藝春秋 (2006年9月5日発売)
3.51
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感想 : 428
4

★は5つでもいいと思うのだけれど、一つ減らしたのは最後の「わたし」の章がややピンとこなかったから。
「わたし」に百合雄は「薄いです。僕はもっとディープな方がいい」と言うわけだけど、世の中とディープに関わったからこそ/関わらざるを得なかったからこそ、ユリコと和恵はああいう風になってしまったわけだ。
そうならないためには和恵の同僚の山本やアシスタントの子のように生きるのが最善なのだから、その部分と矛盾しているように感じてしまったのだ。
もっとも、著者はそれが最善だとは著者は言っていないし。なにより、著者がそれを最善だとは思っていないような気がする。
たんに、“カエルの子はカエル。カエルの姉もカエル”というオチなのかもしれないけれど。
でも、こういう内容の話でそのオチ?とも思ってしまう。
和恵がなぜそれをしたのか?は描かれていても、始めたのがなぜそれだったのか?はないわけで、それを「わたし」で表したのかとも思うけど、和恵の場合は独りでそれをやり始めたわけだしなぁー。

和恵がなぜそれをしたのか?というのはわかる。
前に読んだ時、自分がなぜそれで納得しなかったんだろう?と不思議なくらい、それは明確に描かれている。
それでも、和恵がそれを始めた経緯と、初めてそれをしたことがこの話に出てこないのは不自然に感じる。
(ついでに言えば、初めてそれをした、つまり、初めてエッチをした「わたし」がそれをどう思ったのかが出てこないのも不自然に思う)
描かれていないといえば、ミツルのエピソードを読みたかったな―。

この話って。
結局、人は、他人の目というストレスにある程度晒されないとどんどんおかしくなっていく、つまり、“♪ありのままのぉ~”になっては絶対いけない、という話だと思うのだ(爆)
それは一つには、厳然たる内側のルールで暮らしているQ女子高の生徒であり、そこでつまはじきにされた「わたし」や和恵であり、和恵の家庭であり、ユリコの特異な成長過程でもあるわけだ。
その構造は、ミツルが入信した宗教団体も全く同じなわけだ。
もっとも、それを描いてしまったら、話のスケールが全然違ってくるだろうから、しょうがないんだろうな―と思うんだけど。
でも、じゃあ「第五章:私がやったわるいこと」で語られるチャンのエピソードはどういう位置づけなんだろう?と思ったのだ。

というのも、実はこの本。上巻はそんなに面白く読んでなかった。
下巻になって、いきなりチャンの話になり。(後で絡んでくるとはいえ)全然関係のない人物であるチャンの話に面食らいつつ、話が進まないことにウンザリしながら読んでいたのだ。
ただ、どの辺だかは憶えていない。チャンの話にいつの間にか夢中になっていて。気づいたら、最後まで読んでいた。
そして、読み終わった後、元となった事件が起きた頃や、この本が書かれた2000年頃を思い返していた時だった。
なるほど。日本自体も他人の目というストレスにある程度晒されてないでどんどんおかしくなっていくという意味で、Q女子高や「わたし」や和恵の世界、あるいはミツルの入信した宗教団体と同じだ(った)と著者は言いたいのかな?と思ったのだ。
この本が書かれた2000年前後といえば、暗かったあの90年代が終るということで、世の中にちょっと明るさが見えていた頃だと思う。
ただ、それは気持ちの明るさであって。実際は、90年代不況のリアルなしわ寄せが我々末端にまで感じられる頃だった。
ただ、大企業等は景気の回復をうっすら感じていたようで。2002年からは、“実感なき景気回復”と言われる「いざなみ景気」が始まるわけだ。
でも、日本の大企業の多くがそこで舵取りを誤った。
時の経団連会長が「雇用や給料アップより、新興国企業に負けないように設備投資や研究開発が優先」と言ったくせして、結果は新興国企業にボロ負け。
そこに2008年のリーマンショックが起きて、雇用や給料を後回しにされた一般庶民を直撃。
90年代不況以降日本人に染みついたデフレマインドをさらに進ませてしまったことで、回り回って企業は商品やサービスを値上げできずに収益を圧迫。
結果、給料は上がらないから、さらにデフレが進むという状況に陥って。
いつの間にかGDPはチャンの母国である中国に抜かれていて、しかも、その差は開いていくばかり。
このままいったら、20年後くらいにはチャンのエピソードがそっくりそのまま私たち日本人の身に起きている…、かもしれない(^^;
もっとも、著者がそこまで見越して、チャンのエピソードを描いたかはわからない。
たぶん、日本の中だけ見がちな私たち日本人を、さらに「わたし」や和恵を、その外に住む他人の目に晒してみたということなのだろう。


第六章でミツルが言っていた、「宗教は修行すればするほどステージが上がっていく。わたしに向いていると思ったわ」というのは、なるほど!と思った。
あの宗教団体の信者の多くは、詰め込み教育時代の受験勉強世代だけど、そういうわかりやすさがあればこそなのかなーと。

やっぱり第六章で、木島がミツルに「ユリコも知らない男に殺されちゃいましたけど、言うなれば本望だったんじゃないでしょうか」、「前から言ってましたよ。いつか客の男に殺されるんじゃないかって。怖いけど、それを待っているところもある」というのを読んだ時は、
あー、そういう人って意外と普通にいるよね、と思った。
ただ、なんでユリコはそうなんだろう?とも思う。
ユリコは上巻で手記が出てくるんだけど、それを踏まえても謎の人物なんだよなー。
「わたし」や和恵、あるいはミツルに比べても、役割を与えられたキャラクター感が強いような気がする。


第七章の和恵の語りに、“地下鉄が外に出た。渋谷駅。あたしはこの瞬間が好きだ。地底から地表へ。ようやく身内に開放感が溢れてくる”とあるが、たぶん、これこそが「あの事件のその人がそれをしていた」の理由なのだろう。
ま、売春はともかく、その感覚は自分もわかる。
というか、この感覚って、ウィークディに会社勤めている人なら誰しも金曜の夜、会社を出た瞬間、それに近いものを味わっているんじゃないだろうか?
いやいや。金曜の夜なんて、疲れ切ってて。一刻も早く帰って寝たいとしか思わないから、なんて人は本気で転職を考えた方がいいと思う(^^ゞ
和恵の語りは、さらに“さあ、これから夜の街を行く。泥の真っただ中へ。亀井の行けない世界に。バイトとアシスタントのたじろぐ世界に。室長の想像もできない世界に”と続く。
これなんかは、ティーンエイジャーの時、渋谷や表参道辺りで遊ぶようになった時の感覚と同じなんだろうな―と思う。
一方で、和恵が客の新井の言ったことに対して思う、“わたしは復讐してやる。会社の面子を潰し、母親の見栄を嘲笑し、妹の名誉を汚し、自分自身を損ねてやるのだ”っていうのは、あくまでその場の強がりであって。それをした理由ではないように思う。
確かに、新井の言う“そういう気持ち(復讐)は誰にでもあるけど、復讐なんかしたって自分が傷つくだけでしょ。
淡々とやるしかないんじゃない”を、Q女子高時代にあれだけ痛い目みても学べないのが和恵なんだとは思う。
でも、一方で、和恵と同じく四大卒として入社した山本がデートしているのを見て、“あたしが求めても得られないものを山本は持っているのだ。いや、山本だけじゃない。仕事ができないと馬鹿にしている女子アシスタントも、無礼極まりない同期の男も……至極当然のように持っているのに、あたしだけが持てないものがある。それが人間関係だった”とあるように、和恵だって、それは心のどこかではをわかっているように思う。
人というのは他人に可愛がってもらわないと幸せになれない。可愛がってもらうには、自分が相手に役に立つ存在と思わせることではなく、なにより相手の気分にそぐうようにすること。和恵や「わたし」のように剣呑でいたら、ミツルのように好意を持ってくれる人まで離れていってしまう。
それは、自分を顧みても、そうだよなーって思うのだ(爆)

社員の湯呑を洗っている山本を見て、和恵は言う。
「どうしてあなたがお茶汲みするの。あたしたちはそんなことのために雇われたんじゃないでしょう」と。
「わたしがしなきゃアシスタントの子たちがしなきゃならない。そういうのは嫌だ」と言う山本に、和恵はさらに言う。
「させときゃいい。それしか仕事がないんだから。あの子たちって、寄ると触ると男の噂話か、服とか化粧のことばっか」と。
すると、山本は言うのだ。
「そうかな。あたしはああいう風に生きたい、と思うことあるな」と。
さらに、「あたしはアシスタントみたいに気楽に勤めたい。そして、時期が来たらこんな会社辞めたい」と続ける。
いやいや。20代前半でそう言ってしまう山本の感覚は、さすがにまだちょっと早いんじゃない?とは思う(^^ゞ
ただ、会社勤めをしていて、20代とか、もしくは30代の前半くらいまで?
そのくらいの頃って、体力があるから。仕事について自分に色々なことを課したり、具体的に言っちゃえば能力主義や成果主義が絶対いいと思いがちだけど。
でも、例えば、ある時、徹夜が出来なくなっていることに気づいて愕然としたりと、人は確実に老いていくわけだ。
それは体力気力が続かなくなっていくだけでなく、病気で入院しなきゃならないことだってあると思うのだ。
そして、それが子供の受験等お金が入用な時と重なったりすることだってあるわけだ。
昔の日本は年功序列終身雇用だったから、たとえそうなったとしても、まだ安心できるところがあったと思うのだ。
安心できるからこそ、誰もが仕事に専念出来て、誰もが仕事に専念したからこそ、日本がここまで経済発展できたという面は間違いなくあると思うのだ。
でも、今、日本の会社は、あるいは日本人は能力主義や成果主義に舵を切ろうとしている。
若い時は一晩で何百万も稼いでいたユリコが、年を経たら和恵と一緒に立ちんぼやってたというエピソード、あるいはチャンのエピソードを、今の、そして、これからの日本人はちゃんと考えた方がいいように思うのだが、ま、それはそれとしてw、和恵というのは、つまり頭でっかちの、今で言う「意識高い系」なのだろう。
論文を書いて、それが新聞に載っても、お客さん相手に仕事をさせてもらえない社員。
仕事というのは屁理屈でもなく、知識でもなく。あんがい、ニコッと笑えるか笑えないかだったりするのかもしれないなーなんて思った。

“誰か声をかけて。
 あたしを誘ってください。
 お願いだから、あたしに優しい言葉をかけてください。
 綺麗だって言って。可愛いって言って。
 お茶でも飲まないかって囁いて。”
上記は、帯にもある和恵の独白なのだが。
でも、和恵が思うほど、世間は学歴重視でもないし、一流企業か否かで差別したりしない。
また、見た目の良し悪しだけで女性の好き嫌いを決めたりしない。
もちろん、そういう人はいるし。その傾向があるのも間違いない。
でも、和恵が思っているほどではないと思うのだ。
ただ、根性が捻じ曲がった女性に対して世間や男が冷たいのは確かだと思う。
世間にとって、あるいは男にとって。女性というのは、ニコッと笑ってくれるか否かなんじゃないだろうか?
そういうことを言うと、今は短絡的に「セクハラだ」と言う人も多いけど(^^;
でも、ナントカのひとつ覚えwのようにそういう前に、もしかしたら、自分はいつの間にかこの話の「わたし」や和恵に近づいているのかもしれない?と思った方がいいように思う。
というか。ニコっと笑うか否かというのは、男にも言えることだろう(^^;


第七章の終わりで、和恵はチャンに言う。
「ねぇ、あたしはしちゃいけないことをしているのかしら」と。
すると、チャンは「この世に、そんなことはひとつもないです」と言うのだが、ここはゾワっときた。
しちゃいけないことはない。でも、それをしたら、まともな世界の住人でいられなくなる。これは、そういう意味なんだろうなーって(^^;
ただ、その“それ”って、和恵の何だったのだろう?
ていうか、その“それ”をするかしないかって、誰の身にも訪れることなのかもしれない。
もしかしたら、自分が気づかないだけで、すでに自分は“それ”をしてしまったのかもしれないし、これからしてまうのかもしれない。
ただ、自分が今いる世界って、本当にまともな世界なんだろうか?とも思ったり(^^ゞ

世の中の間違ったことや理不尽なことを正すのは大事なことだとは思う。
そのために過剰なタテマエを声高に叫ばなきゃならないことだってあるとは思う。
でも、タテマエばかりでがんじがらめになっちゃったら、人はどこかで壊れてしまう。
世間の人は壊れた人を見て、「あの人は何であんなことをしたんだろう?」と嘲笑することでストレスを癒す。
でも、その嘲笑によって新たなタテマエが生まれることで、自分たちがさらに生き辛くなることには気づかない。



最近、手に取る本がどれもイマイチで。
ちょっと読んでは眠くなって…という感じだったんだけど、これは久しぶりに夢中になって読むことができた。
教えてくれた方に感謝!感謝!(^^)/

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年8月29日
読了日 : -
本棚登録日 : 2021年8月29日

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