いま生きているという冒険 (よりみちパン!セ 16)

著者 :
  • 理論社 (2006年4月1日発売)
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『いま生きているという冒険』。すべてはこのタイトルに集約される。

目次より、
1章 世界を経験する方法としての旅 インド一人旅
2章 冒険に出かけよう アラスカの山と川
3章 自分の目で見て、身体で感じること 北極から南極へ
4章 いま生きているという冒険 七大陸最高峰とチョモランマ
5章 心のなかに島が見えるか ミクロネシアに伝わる星の航海術(スターナビゲーション)
6章 惑星の神話へ 熱気球太平洋横断
7章 もう一つの世界へ 想像力の旅
を紹介する。
このたった7行を読むだけでも、想像もつかない過酷な冒険の日々と、とんでもないワクワク感がせり上がってくる。それと恐怖と。

本著は児童向けに読みやすく、ふりがなも多く、写真もふんだんに差し込まれている。光村の6年生の国語教科書に紹介されている本でもある(令和2年3月現在)。
6年生の、本をろくに読まない子達には難しいだろうか。世界に飛び立つ前に、ぜひ出会ってほしいような気もするのだが。

本を読むことは、自分が実際にはしていないことやできないことの追体験をすることでもある。それが読書の価値であると改めて思える。私は日本からほぼ出たことのないような世間知らずであるが、実際にインドへ、アラスカへ、チョモランマへ赴いた人は、こんなふうに考え、こんなふうに感じていたのか、と知ることができる。それは本当にすごいことだ。

石川さんの記述で特に心に残ったところは、南米諸国を旅していて考えたこと。
北米とは違い、板きれで作られた小さな家に住む人々。現在の世界は、貧しい人々から豊かな人々へと富が流れるようにできていること。先進国と呼ばれる、搾取し続ける国々の住人である自分たち。教科書で覚えた知識はテストが終わったら消えてしまうが、旅で感じた疑問は炭火のようにいつまでも熱を発し続ける、と石川さんは言う
。体で感じることの大切さ。旅に出よう、という所以。
もう一つは、チョモランマの頂上という場所について。頂上付近では、誰もが一人の生身の人間として自然と向き合わなければならないということ。お金持ちもそうでない人も、王様もサラリーマンも年上も年下も関係なく、この瞬間、この場所における自分自身のあり方が問われ、みんな真剣で命がけであること。「日常生活ではつい忘れがちですけど、こういった心持ちで常にぼくは世界と接したい」と石川さんは言う。世界のあらゆる場所がチョモランマの頂上のような場所だったら世界はどうなるかな、という石川さんの問いかけに、たった一人の生身の人間としての人間の価値を思う。私達はいま、「そうでない」多くのものに惑わされ、振り回されているのだな。

中学で四国に一人旅をし、高校で親に内緒でインドへ一人旅をしたこと。
POLE TO POLEという北極から南極への縦断プロジェクトへの参加、チョモランマ登頂。すこし様相を変えた、ミクロネシアでの航海術の修行の日々。あわやという経験をした熱気球太平洋横断。どの話もインパクトがあり素晴らしく、それぞれが多大なるロマンに満ち溢れている。考えるだけで恐ろしく困難な道程だが、彼のあっさりした筆致のせいか、割とあっさりと読めてしまう。
それにしても、彼の冒険の日々に比べれば、自分はいかにやんわりとした羽毛にくるまれて暮らしているのだろうかとややもすれば悲しくもなり、だがそこから自分もと奮起する気概もないことに気づき、なんだかなぁという心地になる。
だが彼は、何も私たちにチョモランマへ登れと言っているわけではない。

最終章が、私に大きなインパクトと納得と疑問をもたらし、この世界と自分をつなぐ某かと、いま生きている自分について話を戻し、大いなる秘密に足を踏み入れかけて唐突に終わった。ここから先は自分で考えろということなのだろう。

「旅に出るというのは、未知の場所に足を踏み入れること」「知っている範囲を超えて、勇気を持って新しい場所へ向かうこと」「それは、肉体的、空間的な意味あいだけでなく、精神的な部分も含まれ」「むしろ、精神的な意味あいのほうが強い」ということ。「子どもたちは究極の旅人であり冒険者」だということ。この本が、6年生の教科書に掲載されている理由もここにあるのだろう。これは納得の部分。

「空の先にある宇宙と自分の身体のなかにある宇宙を共振させるためのヒント」、「未知の領域は実は一番身近な自分自身のなかにもあり、また、現実を超えたもう一つの世界がすぐそばに存在している」ということ。
ペトログリフ、ドリーミング、沖縄の御嶽。富士山の麓の洞窟。ネガティブハンド。「これらの場所が、時間や空間の認識を覆してしまうある特別な世界への通路としてひらかれている」ということ。

「現実の世界とは別の世界を探すプロセスは、そのまま精神の冒険であり、心を揺さぶる何かへと向かう想像力の旅へとつながっていきます。それは実際に世界を歩き回るよりもはるかに難しく、重要なことであるとぼくは考えるのですが、みなさんはどう思われますか?」

彼の問いかけについて、私はなんの言葉も持たないのだが、この一番最後のたった10ページの存在で、この本の持つ意味は大きく姿を変えてしまった。世界のあり方は「サグ」と「ナユグ」のようなのかもしれないし、この本がこういう終わり方をしたことは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の終わり方に通じるのではと思うほど劇的だった。彼が言いたいことは、この世界の厳然たるリアリティーの部分だと、私は思い込んでいたのだ。けれど、そういったものを深く強く身にしみて経験したであろう人が、最後に言いたかったことはこれだ。つまり、世界とはそういうものなのだろう。おそらく、人間が古代から身体に感じ取って具現化しようと励んできた宗教というものも、こういったことをなんとか形にしようとしてきた結果ではないだろうか。正直、この最終章のほんの数ページを、意味わからんと読み流してしまえばそれまでである。実際、私には、意味はわかっていない。けれど、意味がある、というか、それが真理へ続く緒なのだろうということはなんとなくわかった。
途中まで読んできたことと最後にして大きく形を変えた本書について、今、とても不思議な感慨を抱いている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 2類
感想投稿日 : 2020年3月2日
読了日 : 2020年1月22日
本棚登録日 : 2020年1月22日

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