自画像のゆくえ (光文社新書)

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  • 光文社 (2019年10月16日発売)
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 自画像とは、明治以前の日本には根付いていなかった「西洋の精神」そのものであり、その精神を取り込むことこそが当時の日本美術界における至上命題であった。であるならば、その「描かれるべき西洋の精神」とは日本人にとって何だったのか。本書は、この問いに答えるべく、自画像(もしくは画家の視点を取り入れた絵画)を多く描いたとされる10人の西洋画の大家の生涯と作品に触れながら、「セルフポートレイト」をテーマに作品を描き続けた自身の半生と戦後日本のあゆみ、そして今を生きる我々の未来を考察する大著。

 知性と権威を象徴する肖像画のプロトタイプとなったダ・ヴィンチ。
 ナイフがわりに絵筆で自らのうちに潜む悪徳をも突き刺したカラヴァッジョ。
 消えゆく宮廷と永続する芸術を「観念的遠近法」の構造に埋め込んだベラスケス。
 観察者と夢想者、超俗と世俗の二面性を内包し肖像画の大量生産に勤しんだレンブラント。
 直接自画像を描かぬかわり、自らを暗箱としての絵画に埋め込んだフェルメール。
 画家としての「顔(画風)」と自らの病という個性の相克に苛まれ続けたゴッホ。
 「異形性」と「両義性」の苦悩のうちに自らをデコレートしたフリーダ・カーロ。
 他者によって構成される自らのイメージを露悪的なまでに重視したウォーホル。

 著者によるそれぞれの画家の評伝は、一応は自画像を参照点としたものではあるが、ほとんどバラバラでとっ散らかっているといってよい。もちろん、少々穿ち過ぎなきらいはあるものの、それぞれ独立した読み物としては面白い。しかしこの時点では序章で提起された「日本にとっての西洋的精神」の詳解につながるような系統立った展開はまだ見えてこない。
 
 ここまでが各論とすれば、ラスト100ページ足らずがいわば総論。ここでやや唐突感を伴いながら描かれるのが、戦前に醸成された「日本的なるもの」の称揚に対する反動として、敢えて日本美術に触れまいとする事なかれ主義に戸惑う著者の青年期だ。戦前・戦中を駆け抜け夭折した若き画家らにシンパシーを抱く著者は、「時代の踊り場」としての芸術の停滞期における画家らの苦悩が、その後の日本における西洋美術の国際的な評価に繋がったのだと論じる。日本における西洋の美術表現を西洋文化の剽窃とする見方に強く反抗した松本俊介を引用しつつ、西洋や和風といった二項対立を超越する普遍的価値が、このようなモラトリアル的「踊り場」における自己同一性の獲得には重要であると説く。

 さらに最終章では、「自画像」という内省的表現に伴う重厚さから軽やかに逃れる「自撮り」の意義は、「日常から遊離した私」を表現するという意味で撮影者から被写体への主導権の委譲がなされることにあると喝破する。様々なテクノロジーの進化により、以前よりも各段に容易に「変身」が可能となった今、可変的な「私」を楽しむことは、不安定な時代を主体的に生き抜く知恵であるというのだ。著者は「過去形未来」というやや難解なことばで表現しているが、自画像を描くということはいずれ死にゆく「私」を引き受けて、時間軸を超越した普遍性を獲得することなのだ。

 「コスプレ」という言葉がコモディティ化する遥か前より著名画家の自画像に「なりきる」というスタイルを確立していた著者の創作は、何らの重々しさも感じられずいかにも軽やかで楽しげである。それは、凝り固まった「自我」イメージからの柔軟な逸脱こそが「自画」像であるという逆説を著者が身をもって表現しているからであり、さらにその逸脱を実現する手段は誰にでも容易に入手可能なんだよ、という極めてポジティブなメッセージを携えているからこそだろう。
 

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年3月16日
読了日 : 2020年3月13日
本棚登録日 : 2020年3月13日

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