本書は、臨床の現場で死を見つめ続けてきた医師と、遠くの、まだ
意識にのぼる前の声に耳をすまし続けてきた詩人による、死と詩を
めぐる往復書簡集です。
まず、対談ではなく、往復書簡であるところに本書の魅力がありま
す。相手の言葉をじっくり吟味した上で、違う時空から届けられる
言葉のやりとりには、対談のようなライブ感はないものの、何とも
言えない深みがあります。おまけに、谷川俊太郎の書簡は、必ず、
自身の詩でしめくくられるのですが、それがまたとても良いのです。
徳永氏は、臨床を「言葉が群生する空間」と言います。特に、終末
医療の現場には、安易な意味付けを拒否する、具体の言葉がこんこ
んと湧いています。その言葉を届ける相手として彼が選んだのは詩
人でした。選ばれた詩人は、徳永氏の「からだぐるみの肉声」「死
に拮抗することのできる話術」を前に、ためらい、ひるぎながらも、
「まだしも死と拮抗できる可能性を秘めている」詩のことばでもっ
て、応えていきます。
介護や看護や医療や教育の、現場のことばには豊かな味わいがあり
ます。それは、人間の尊厳に触れているからだと思います。
本書は、そんな人と関わる現場の大切さを改めて教えてくれます。
医者だけが臨床の現場を持つのではありません。どんな人にも、人
と関わる、のっぴきならない現場があります。人の尊厳の問題は、
そういう現場に宿るのだと思います。そして、敬意を持って人の尊
厳に触れていくところに、詩が生まれてくるのでしょう。
味わい深い本です。是非、読んでみてください。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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言葉以前に存在しているものが今も基本的にこの世界を形成してい
るとぼくは考えます。言葉は、意味は人間を世界に開きそこに秩序
を与えてくれるものですが、ときにそれは人間を閉じこめるものに
なり得ます。
自分が赦されている、赦し、赦されている、と感じる中で死を迎え
ることができると、やすらかな死を迎えやすい。自分は赦されてい
ない、恨みの刺の中で死を迎えなければならないと感じる時、やす
らかな死となりにくい。生きている時も心のわだかまりはあるけれ
ど、死を前にすると、そのわだかまりがくっきりと浮かんでくる。
和解って3つある、って言われている。家族や友人との和解、神や
宇宙との和解、そして自分自身との和解。ぼくは、最終的には、誰
もが自分との和解ができるかどうか、が問われているだろうと思う。
人生はそこにかかっている。
古典辞典を引くと「許し」と「緩し」は同じ語源であることが分か
ります。(中略)他人に対してゆるゆると良い加減であることもま
た、和解の一つの条件なのかもしれません。
「死がない」は「詩がない」に通じますね。死と詩がない暮らしは
「しがない」暮らしです。
一瞬は熟れきったとき / 永遠となる
言葉は熟れきったとき / 沈黙する
果実は熟れきったとき / 地に帰る
死を / 熟れきった生として / とらえること
敬意を持つって、根本的なことだな、って思いますね。敬意が存在
すると、変化が生まれる。流れが変わり、質の転換が生じる。敬意
がないと何も変わらない。(中略)自己治癒力というものは自然に
湧くものというより、他人の敬意の土の上で育つ、というべきなん
だろうな
声という音波の波動は手足を用いる行動に比べると桁違いに繊細微
細なものですが、そういう波動もまた人を動かす可能性を持ってい
るのではないでしょうか。
死が来るのを待つという発想より、日々死に向って歩むという発想
のほうがすこやかな感じがするんです。
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●[2]編集後記
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「許し」と「緩し」は同じ語源、とありました。束縛を解いて緩め
る。そこで緩めるものは自分、なのでしょう。自分を緩め、他人が
入り込める余地を作ってあげる。それが「許す」ということなのだ
と、そんなイメージが湧いてきます。言葉の語源を辿っていくと、
思った以上に深く、豊かな世界につながっていくから、面白いです
ね。
実は、以前に、「聴」の字源を調べていて知ったのですが、「聴す
(聞す)」と書いて「ゆるす」と読むのですね。文字どおり「許す」
と言う意味です。「自分の束縛を緩めて、相手を聞き入れる」から、
「聴す」=「許す」になるのだそうです。
39年間生きてきて、全然知りませんでした。ちょっと身体が震えま
した。
「聴く」ためには、自分の中のこだわりや枠を取り払って、相手の
ことを先入観なく迎えいれる必要があるということでしょう。相手
の話に黙って耳を傾けているうちに、苦手だなと思っていた人が愛
しく見えてくる、ということを経験することがあります。その時、
私達は、たぶん、相手のことを許しています。聞いているうちに、
自分と他人との間が緩まるから、目の前にいる相手のことを許せる
ようになるのでしょう。それは自分を許すことにもつながります。
「聴す」=「ゆるす」には、そんな、人や自分と向き合う上での、
本質的な態度というか、身構えのようなものを教えられる気がする
のです。
- 感想投稿日 : 2011年12月29日
- 読了日 : 2009年3月16日
- 本棚登録日 : 2009年3月16日
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