今、生きる秘訣: 横尾忠則対話集 (光文社文庫 よ 10-2)

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  • 光文社 (1998年4月14日発売)
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感想 : 5
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今週おすすめする一冊は、美術家・横尾忠則の対話集『今、生きる秘訣』です。今から30年前の1980年に出版されたものの文庫版です。

岡本太郎(21世紀の芸術)、今西錦司(目に見えない世界)、木村裕昭(病いは心のアンバランス)、島尾敏雄(夢体験)、加藤唐九郎(土と火の対話)、岩淵亮順(食物で運勢が変わる)、川島四郎(生きる秘訣)、山手国弘(カルマからの脱出)、手塚治虫(宇宙文明の夜明け)という構成で、文庫版解説を心理学者の河合隼雄が手がけるという豪華な布陣。

70年代後半、当時、40歳になったばかりの横尾氏が師と仰ぐような方々を選んでの対話なので、今はもう全員が亡くなっています。文庫化に当って読み直した横尾氏自身が、一人一人の言葉が遺書の言葉に思えたと書いていますが、各界で独自の功績を残してきた方々が、横尾氏に問われるままに自らの精神世界を振り返って語った一言一言には、確かに遺書のような重みがあります。まさに「生きる秘訣」としか言いようのない、味わい深い言葉ばかりです。

70年代の息吹を感じられるという意味でも興味深い本でした。70年代は、ローマクラブのレポートやオイルショック、それに公害問題などで、世界の有限性が初めて認識された時代です。その時に、人々の意識が向かったのが精神世界やスピリチュアリティでした。精神の彼方に無限を求めることで、有限の恐怖を超克しようとした時代。今振り返ると、それが70年代だったのかもしれません。

そして、それから30年後。日本では、再びスピリチュアルがブームになっています。温暖化等の環境問題を通じて、世界の有限性に向き合わざるを得なくなっているという意味でも、状況は70年代に似ています。いや、問題が顕在化したのが70年代で、それをずっと誤摩化してやってきたけれど、いよいよ無視できなくなってきた、という見方のほうが正しいのかもしれません。繰り返しているように見える歴史の底で確実に潮流は変化していて、その潮目が70年代にあった。その新しい潮流とどう向き合うかが、今更ながらに問われている、ということなのでしょう。

そう考えると、「文明はあるところまでくると繰り返してだんだん衰えてきて、自然にだめになっちゃうような気がする。(…)まだ地球的な規模の国家問題とか国家意識みたいなものがある間はだめで(…)鳥瞰よりもっと上の視点から地球を眺めたときに初めて気がつく人が出てくるんじゃないかと思う」と本書の中で語る手塚治虫の言葉が深い意味を持って迫ってきます。

30年前の本だけれども、全く古さを感じさせないのは、ここに出てくる方々が、「鳥瞰よりもっと上の視点から」世の中を眺める透徹した生き方をしていたからでしょう。

30年ぶりに開いた遺書には現代のことが書いてあった。そんな目眩に似た感情を起こさせてくれる本です。是非、読んでみてください。

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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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人間が生きている命に筋というのがあると思う。その筋を生まれたときからずっと持ち続けている人間と、しょっちゅう変えちゃったり、状況に応じて変えてしまう、そういう人間というのがあると思うのね(岡本太郎)

昔から、無用の用ちゅうやろ。そやから本当に、学問でもおれは目的があって大学の教授になりたいとか文化勲章が欲しいとか、そんなことで学問はしとらへんな。これも若いときから考えてきたんやけど、十年間くらいぼくがカゲロウの研究をやってたときに、やっぱり自然と密着したけど、坊さんの心境てこんなもんやろかと思ったね。もう自然に入り込んでしもうて。そして無欲になったね(今西錦司)

病気というものは、どうも繰り返すもんだ。肉体はまあ物質ですからね。それに対して、物質力で薬を与えたり、悪いところを取れば、もうその部分はなくなりますね。しかし、また別の所に病気が起こってくる。そうなると病気が起こる原因というものが、その部分にあるんじゃなしに、どっか、もっと別の世界、別の次元にあって、それが肉体に投影してくるのが病気であると、こう考えておったんですね(木村裕昭)

陶芸に腹を決めるまで、いろんなことをやったが、やってもやっても道が開けないんですね。迷い迷っていろいろとやっとった。そのとき思ったんですが、世の中っていうのはいくら真面目にやっても誰も真面目を認めやしないと。いくら何をやっとっても、けっきょく自分のやりたいことをやっとったほうが勝ちなんだと思った。で、もう世間を相手にせずに、一人だけで作品を作っていったんです。そして、今度展覧会をやったらい、えらい人気で。二回とも日本一になっちゃったんです(加藤唐九郎)

いい作品を残しておこうと思ったら、欲や迷いがあったらできない。思いきってぱっぱっと感じの悪いやつは割って捨てるだけの欲のない考えでいかなくちゃだめだ。でも、なかなか割れないものですよ。自分の焼いたものを割るということはね。けれども、そこを思い切って割ることの気持ちがないと、いいものは残らないですね(加藤唐九郎)

私は四歳になる男の子と、それから、大型の猿を一緒に解剖したことがあるんですが、もうどっちが人間だか猿だかわかりません。かろうじて、こっちが毛が生えているから猿だと思うくらい、人間と猿の内蔵は変わってません。ですから、頭は進化してるんですけども、内蔵の構造なり配置、機構は変ってませんね。それを内蔵まで発達したと思って、今のように三度食うのがいいっていうのは、これは間違いなんです。あくまで自然に即して物を食う。それが、くどいようだけど、八十五歳の好青年をつくる原因なんです(川島四郎)

何が退廃かしれないですけど、このような精神世界を求めるムーブメントが起こるということは、彼らがすでに絶望的な未来を読んじゃってるんじゃないかと思うんです。いい方を換えれば死の準備を始めているんじゃないかと。『チベットの死者の書』なんていう死の水先案内書に人気が集ったり…。(横尾忠則)

滅びるというよりも何か自然に後退していくような感じでしょうな。本当に滅びてしまうとなると、イースター島の例じゃないけど、食糧危機とか、現実に生活に困ってしまって滅びるよりほかないと思うんですが、それ以外は、文明はあるところまでくると繰り返してだんだん衰えてきて、自然にだめになっちゃうような気がする。
(中略)
まだ地球的な規模の国家問題とか国家意識みたいなものがある間はだめで、これが地球外の天体に生命が見つかったとか、人間が地球から飛び出したときに初めて、鳥瞰よりもっと上の視点から地球を眺めたときに初めて気がつく人が出てくるんじゃないかと思う。(手塚治虫)

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●[2]編集後記

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秋になって、木の実や果物の膨らみが目立つようになってきました。家の周りは何故か柘榴を植えている家が多くて、散歩するたび、柘榴の膨らみが気になってしょうがありません。子どもの頃、柘榴の大木がある家に棲んでいたことがあるのですが、あのほのかで甘酸っぱい味を最近とても懐かしく思い出すのです。

そういえば柘榴が売っているところなんてあまり見ないなと思って、近所のスーパーに聞いてみたところ、柘榴は扱っていないとのこと。そもそも国内産が出回ることはまずなく、あってもアメリカ産だということでした。

お釈迦様は、子どもをさらってきては食べてしまう鬼子母神に、子どもの肉の代わりに石榴を与えたという伝説があります。そのせいか、柘榴は人肉の味がする、と言われ、ご年配の方の中には、柘榴を嫌悪する方がいらっしゃいます。確かにざっくりと割れた身から覗くピンク色の実は、植物というよりも、動物的で、官能的です。

実際、植物には珍しく、柘榴には人の女性ホルモンと同じ構造のエストロゲンが含まれているそうです。そういう意味では人肉に近い。女性ホルモンが摂取できるので、生理不順や抜け毛に効くそうです。最近、抜け毛が気になるのですが、柘榴を無性に食べたいことと関係があるのかもしれませんね。

石榴、もう少しで食べ頃です。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 自分と出会う
感想投稿日 : 2010年9月27日
読了日 : 2010年9月27日
本棚登録日 : 2010年9月27日

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