パスティーシュ小説の名手が、『源氏物語』から現代に至るまでの日本文学史を駆け足でたどった概説書。
まえがきには「日本文学について、気楽なよもやま話をしてみよう」とあり、各章は「雑談1」から「雑談10」と銘打たれている。
つまり、“これは文学研究者ではない一作家が語る「雑談」にすぎないのだから、学問的厳密さなんて求めないでよ”という予防線が張ってあるわけだ(書名も予防線的)。
学者ではない立場からの気楽な意見だからこそ、大胆不敵な卓見も随所にあり、なかなか面白い本になっている。
私がとくに感心したのは、「雑談2 短歌のやりとりはメールである」と、「雑談3 エッセイは自慢話だ」 の2つの章。
前者は、『源氏物語』に頻出する男女間の短歌のやりとりを、“あれは要するに現代の男女のメールのやりとりのようなものだ”と論じたもの。なるほど、とヒザを打った。
後者は、現代日本のエッセイの原型は『枕草子』と『徒然草』にある、としたもの。
そこまでならとくに目新しくもないが、面白いのは、“男性がエッセイを書くと無意識のうちに『徒然草』的になり、女性がエッセイを書くと無意識のうちに『枕草子』的になる、という指摘。
《若い頃に「徒然草」を読んだ日本の男性が、年を経て大人になり、エッセイを書いてくれと言われた時、あんなふうに世の中の愚かしさを叱っていいってことだな、と感じて、嬉しくなっちゃうのである。》
《日本の女性が書くエッセイのお手本は、清少納言の「枕草子」なのである。つまり、何が書いてあろうが、そこで言っていることをまとめてみれば、私ってセンスがいいの、という自慢なのだ。》
《日本のエッセイは、時流から外れて不遇をかこつ人が、だがしかし私にはこれがあると負け惜しみの自慢をするという伝統の中にある》
むろん、この指摘にあてはまらないエッセイだって山ほどあるはずだが、それでも、枝葉をバサバサ落として本質だけを見てみれば、「なるほど」と思わせる。著者の軽い語り口の中には、本質をグイっとつかみとる慧眼がひそんでいるのだ。
ただし、最後の「雑談9」「雑談10」は、明治後期から現代までの日本文学をあまりに駆け足で語りすぎており、総花的でつまらない。「日本文学史」という体裁を整えるためだけにつけ加えた蛇足の章、という感じ。
かつて私は、創刊当時の『SPA!』に連載されていた清水のコラム「勘違いメディア論」を読んで、「なんと面白い文章を書く人だろう」と感心した。「この人は小説が売れなくなってもエッセイスト/コラムニストとして食っていける」と思ったものだ(「勘違いメディア論」は現在、『パスティーシュと透明人間』という清水のエッセイ集に収録されている)。
本書には、清水のユーモア・エッセイストとしての資質が躍如としている。
- 感想投稿日 : 2019年3月27日
- 読了日 : 2009年10月21日
- 本棚登録日 : 2019年3月27日
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