存在論的、郵便的: ジャック・デリダについて

著者 :
  • 新潮社 (1998年10月30日発売)
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感想 : 47
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ハイデガーの『存在と時間』を読んで、そこで幾度も用いられている論理形式に納得しかねた哲学素人がその乗り越えを期待して本書を手に取った。
『存在と時間』で根本的に疑問に思ったのは、ハイデガーが先生のようにポンポン新しい固有名詞を「現象学的手法」の名のもとにどこかから持ち出して、「それは存在的には××だが、存在論的には〇〇なのである」と、あたかも何かを理解したような気にさせる形式を一貫して採用していること。この論理は構造的には預言者とか宗教の伝道師が語るときのものと変わらないと思ったのだ。

この『存在論的、郵便的』では、ハイデガーの哲学にラカンの理論を併置し、両者に共通する、"ある固有名詞を特権化・絶対視し、言葉の意味全体の根拠としてそれを挙用する手法"を「存在論的脱構築」と名指し、それに対抗する言説としての「中期デリダ的文章」とその手法「郵便的脱構築」がフロイトを援用しながら言われている。

詳しく述べると、存在論的脱構築と郵便的脱構築では言葉の意味の不確定性(=超越論的シニフィアン)の取り扱いが異なっている。前者においてはその不確定性は、"一つの(ないしは有限個の)言葉の意味の不確定性"へと言語体系内で「皺寄せ」され、皺寄せされたその一点は言語体系内での定義が不可能なものとして言語の外部に依拠するとともに、その言葉以外の残余については意味の確実性が担保される。
後者においては、言葉の意味の不確定性は無数のそれぞれの言葉に分割されて宿っており、一つ一つのそれらの不確実性は記号がエクリチュールとしてのみ解釈される無意識の次元からの揺さぶりとして捉えられる。そして無意識は「転移」によって他者へと接続されている…。

本書を読み終わって、まず私は冒頭の疑問を通して私自身の物事の捉え方に潜む一切の恣意性を排除したかった、という私自身の欲望を理解することができた。この「恣意性の問題」は、第二章でデリダ派の問題として直接的に言及されている。本書を通じてそのことに対する明確な回答を得られたと思うのでとても満足している。
また、本書では言葉の意味の絶対化についてだけではなく、意識生活において何かに拘りそれを過剰に意味づけること一般に対しての批判もデリダから読み解かれていて、著者自身も最後の部分で「デリダに拘りすぎた」というニュアンスのことを言い性急に議論を終えている。
この態度はまさしく「観光客」的であるとともに、著者自身がこれまでに身を以て示して続けてきた在り方だと思い、ある種の感動さえ覚えたけれども、私自身もそのような転移的な読みや、実存の悩みの末に哲学書にのめり込むこと自体もそろそろ終わりにし郵便空間に身を委ねるべきである、と強く感じさせられた。人生の転機となり得る読書体験だった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2021年7月22日
読了日 : 2021年7月22日
本棚登録日 : 2021年6月13日

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