意味がない無意味

著者 :
  • 河出書房新社 (2018年10月26日発売)
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 P112のハッテン場を分析した文章があって、レオ・ベルサーニは、ゲイのハッテン場を【外面的な判断のみによって相手を選び、すぐさまセックスをして去っていく場所を、一般的な「社交性」にとってのゼロ地点のごとき場所として考察】しているという。
 自分を控えめにして、自分を普段より大人しく「以下」にして、クールにするのは、ファシズムへの防波堤であるとも述べている。言い過ぎやろとは思う。
 そして、この「以下」の性質は、存在することの快楽へとたぶん繋がっていて、(だって熱狂したら、存在の快楽みたいなのの味わい深さじゃなさそう。存在が消えていって一体化する感じになりそうだから)その快楽とは、諸々の事物へと向かい、そして離れるという絶え間ない動きへの誘惑性であるという。存在の快楽とは、つまりは「行って帰る」みたいなものである。小説が、異世界に行って、現実世界に帰るように、ハッテン場へは、クールに、日常世界なので一般客には迷惑をかけなようにして目立たず、それでいて、その人物がハッテン目的なのかどうか見抜き、好みかどうか決めて、目の合図などでお互い同意し、クールにハッテンする。そして、行為が終われば帰る。その流れは、射精に目的があるというよりは、動きそのもの、クールに動いてクールに去るのが、存在の快楽の、社交の、その原点であるという。なるほど、説得力はある。
 で、このクールさ。爆サイ見てもわかるが、いわゆる「冷笑系」とされる人々の感覚にも近い。というのも、冷笑系を批判するフェミニズムも、右派も、やはり熱狂と運動と、「こんな(韓国や男性による)ひどいことがあったー!」というハッシュタグを使った暴走と情報拡散にある。その反対に冷笑系は、粘り強く、徐々に相手を追い詰めていく。冷笑系運動家として、もっとも今話題をさらっているのは暇空だろう。そして、暇空が立ち向かっているのは、どう考えても権力者のなかの権力者である。究極の反体制のようなことをしているわけだ。もう一つあるのは、大学教授やフリーライターなどが、絶対にこの人物を認めたくないという欲望がどこから来るのかを自己分析しないといけないということだ。自分たちができなかったことを、暇空はどうやって成し遂げているのか? その分析なしには、今後も、政府にやられっぱなしではあろう。少なくとも、あの冷笑は、ファシズムへの抵抗になる。それは、右からの、左からの、フェミからの、もしくはホモソからのファシズムへの抵抗として、「冷笑家」は実によく「熱く戦える」こと、様々な党派の政治家(維新も自民も)を動かせるということを証明しているように思う。桜井智恵子は新自由主義への抵抗として「新自由主義経済や『我々』として巻きこんでくる社会をこれ以上支えない」ということを述べている(福音と世界 2023年2月号)が、それを実際に行えているのは、生き残りをかけて頑張る大学から金貰っている桜井でも、新自由主義批判という新自由主義にがっつりただ乗りするフリーライターでもなく、暇空らこと冷笑する人々の熱い戦いだ。人間を1つにまとめたり、運動に動員したり、わけわからん税金もらったりしている思想や権力への抵抗者は、皮肉にも桜井智恵子が最も嫌う人間によって為されているように思われる。(ただし、暇空は左右ではなく、個人で巨大な利権と戦う狂人という認識はブレてはいけないので、間違っても、人格的にも推奨されるべき人物として捉えてはならず、狂人が成し遂げたインパクトの範囲がいったいどれほどの波及を、イーロン以後の他の左派運動と比較して、及ぼしたのかを考えるべきだ)
 さて、本著の「意味のない無意味」だ。我々は有限な意味しか意味がわからないわけで、意味がある意味で生きている。でも、目の前のトマトは、無限に色んな情報を持っているので逆に意味がわからない。つまりは、無意味。「意味がある無意味」であり、トマトは突き詰めて考えれば謎の何かであると言える。では、意味のない無意味とは何か。それは、トマトの意味の増殖を止めるものである。意味のある無意味は、もっと何かを言いたくされるもの。意味のない無意味は、絶句させるものである。排水口の蓋になるものである。そして、著者はその意味がない無意味として<身体>について論じる。<身体>は即自的無意味である。身体は、無限の多義性を減算し、意味が有限化される。人間の身体が、この世の中の無限の意味を絞り込んだりすることそのものは、意味があるのかといえば、別に誰かに意味づけて決まるものでもないし、よくわからない。ずっと考え続けることで意味を追い続けるのとは異なり、身体を動かしたら結果はすぐに出る。無意味=意味にとらわれていつまでもなにもできないから脱出できることが身体だ。かつそれはどうしてですか? 身体がどうなって、どうしてこうしてですか? と問い詰めていっても、最終的には、「それをそうしたから」として言うしかない。陸上部に「なんで走ってるんですか」と言っても、「いや、走ってるから」と返すだろう。意味もないし、無意味である返答だが、不思議と納得(絶句)できるものだ。ハイキューでも、バレーなんて所詮部活だろ、という意味づけする男月島が、バレーの「意味のない無意味」に気付き、部活を超えて、点を取る面白さに気付く名場面がある。あの月島に対して、意味づけするというよりは、月島そのものは「意味のない無意味という生き生きとしたもの」を表現している。
【相対主義を超えるとは、解釈の増殖を止めることだ。無限の多義性を止めることだ。<意味がある無意味>の消去だ】(P31)と著者は主張する。否定神学システムが<意味がある無意味>であり、<意味がない無意味>は「郵便的脱構築」である。
 さて本著において最も分かりやすく、それでいて良い論文はフランシスベーコンの論文だ。これは良い。
 小林秀雄は「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」ことを宣長などを通して哲学していたが、千葉はベーコンを通して、その作品は多義化を遮断し、<文字通りそれでしかないこと>から<文字通りそれでしかないこと>への移行があることを述べている。思考を停止する。しかもそれは多様で貧しく思考停止する。しかし、「豊かである」とは誰かによって「規定」されるものなので、「貧しい」くらいで丁度いいのだろう。ベーコンのあのおどろおどろしい絵にたいして、<文字通りそれでしかないこと>として興奮できることが、人間らしさであり、大事であって、ベーコンを見て、ベーコンはフェミニストだ/ホモソだと述べてどうすんの? というむかつきが著者から伝わってくるように思うが、たぶんこれは私自身を語っているだけなので、外れているかも知れない。後の論考は森村泰昌の「鼻」について述べたものがよかった。森村の「鼻」は、どんな変態をしてみても、森村を森村にするものである。そして、森村の「鼻」は森村を変態にする「こだわりの点」になるし、かつ、「こいつ森村やん。ただのコスプレやん」とバレる「弱点」でもある。それは森村の写真を楽しめるヒントになると思う。
 他はとくに読まなくても良いと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2023年2月24日
読了日 : 2023年2月24日
本棚登録日 : 2023年2月24日

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