対立的な本である。
どこが対立的かというと、この研究会、完全に二分されていると思われるからだ。
その論点はこの2点のみ。そして、それは非常に重要な論点だ。
一つは最初の障がい者の話にもあるように、「閉鎖性」への尊重を巡るものだ。【「ダイバーシティ」や「寛容性」のような言葉をちりばめた「べき論」によって、個人の環世界を無理やり開かせようとするのは、場合によってはかなり暴力的な行為なのではないかと感じます。】というところ。
もう一つは……と思ったけれども、正直この一点といって良い。【今日のわたしたちに必要なのは教条的な思想よりも、具体的な方法を編み出すことではないかと思います】という一文もある。
つまり、「教条」への警戒。そして「閉鎖」への尊重。
この本の中で、この主張について鋭く対立している。
他のページでの別の論者は、閉鎖を尊重しつつも、開かせていかねればならないといったような、そして教えを広めていかねばならないといったような、結局はこの本の結論と真逆にいっちゃってないか? という風な文章がところどころにある。というか二分されているように思える。
簡単に言えば、人間が閉鎖してもいいじゃないか、というのがまず第一の主張として本著では出てくるのだが、他の論者は、同じ書籍内で、「開かせていくべきだろう」というのをちょっと述べていたりするのだ。
私は、心を開いていこうということが「正解」になっている世の中にもかからわず、逆に「閉鎖性」の効用について、哲学的に、情報学的に、体験的に、具体的に述べる論考を冒頭に持ってきた本著に敬意を表する。
おそらくドミニク氏も、開かせるだの、なんだの、教条的なもの、そういったものに対しては懐疑的ではあろう。
この根底の哲学としてはオートポイエーシスがあるのだが、その哲学は保守反動のように思える。
というのも、「対話」や「共感」といったものは、どちらか「言葉」が強い方に、弱い方を染めてしまうか、乗っ取ってしまうことにつながるし、対話・共感の重視というのは、イデオロギーというかある政治思想などを広めるのにはもっとも有効なものである。そうしたアクティブラーニング的なるものが、実は言論統制へと繋がり、国家の思う通りに人を動かす世の中に一役買っていたことを論証している論文もある。(『アレ』Vol.9所収 松井 勇起「生涯教育という見果てぬ夢」)
まあ現実的に、「対話しましょう」なんて言ってくる人間にろくな人間がいないことは、人生を普通に生きていれば分かることである。
逆に、西垣情報学やオートポイエーシス、もしくは共話といった手法、「ちゃちゃをいれて対話をさせないこと」、そういった、「対話共感というものではない話し合い」というものは、まあオートポイエーシス的会話とでも言えようか、それは保守反動のように教条主義者に一撃を食らわせるし、重要なことではないかと思う。自分の思想を広めたい、という人間にとっては厄介この上ないだろうけれども。
伊藤亜紗という人はたいしたもんだと思う。
- 感想投稿日 : 2021年5月30日
- 読了日 : 2021年5月30日
- 本棚登録日 : 2021年5月30日
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