「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義

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  • 彩図社 (2018年1月30日発売)
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感想 : 11
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 この本の最大の問題は「リベラルはこの本をヘイト本認定して多分読まない」ということなのだ。もっとめちゃくちゃおしゃれな装丁にして、おもわずスタバで読んじゃうみたいな、おもわず遠い目で見えない虹を探していましたみたいな、そんな感傷的な表紙にして、読んでみたら内容はこれ!みたいにして、広められなかったか。それくらい、広まって欲しい本だと思う。
 岩田氏のいまは、リベラルをやっつけるというよりは……リベラルVS保守ではなく「自由VS反自由」であるという枠組みを提示している。そして、リベラルは現在、反自由であるという奇怪な思考に陥っていることを指摘している。自由主義がリベラルであるはずなのに、あまりに自由を求めすぎて、また平和憲法に固執しすぎていて、人々に不自由を要求するまでになっているのだ。
 そして、もっとも知識人が避ける話題として「憲法制定権力」についての指摘があるのが面白かった。「憲法制定権力」とは、内容の正しさには関係なく、憲法を制定する権力を保持したある自由な政治的意思のみが憲法を制定することができる、というもので、当時日本は「オキュパイドジャパン」であったということを大前提として憲法を語らないといけない。それをどうにかして見ないようにして、リベラルは、日本人が自ら憲法を作ったということにしなければならないが、「その憲法を制定した権力はどこですか? 当時の権力は誰ですか」となれば、それは天皇でもなく日本国民でもなくマッカーサーなのである。今の「日本人が憲法を作った説」への痛烈な反論があるし、これに反論するのは思いつかない。また、当時の検閲システムについてもまだまだ研究が足りていないという。それをすると出世できないから、出世したい知識人は大正時代とかをやるそうだ。

 日本的リベラル知識人を本著では、はっきりと発言の原典を示しつつ批判しているのだが、加藤典洋の言説への批判が一番良かった。というのも、「交戦権は否定するが国土防衛隊を編成する」という提言をしたり、それなのに「国内でテロが起きた場合の治安出動は認めない」といった、とにかく「日本国が動く」というのが認められない。別の国家権力が何をしてもいいが、日本国だけはだめ。日本国以外ならば、どんな組織もあって良いということなのだ。日本国の軍隊が憎いのであり、それ以外ならば許すということを貫くために、あらゆる矛盾を超克しようとしている。
 フィリピンが実効支配していたミスチーフ礁、スカボロー礁が中国に奪われるなか、日本は横須賀に第七艦隊があるから、まだ領土は奪われていないわけで、中国は土地を購入したり、韓国の場合は島に移住させたりして、ソフトにやっていくしかないのが現状だ。それもどうにかしたい脅威ではあるけれども。

「サルトルはたしかに一個の輝かしい才能だと思うが、とぼくはいった。
―――ことが政治問題に触れると、どうしてあんなに子どもっぽくなるのでしょうか。
―――それが不思議なのだよ。あれほどの才能が。
 歯ぎれのいいアロンが、このときは珍しく暗い顔をして口ごもった」
(村松剛『アンドレ・マルロオとその時代』角川選書、一七八頁)

日本にはあまりにもサルトル型の「リベラル」な知識人が多すぎると岩田氏は結論する。

 だが、別に「リベラルな人」の矛盾を指摘しても仕方ないのだ。本人の中では矛盾していないのだから。しっかり発言の原典を示して批判するのは正しいし、必要な行いだが、さらに一番重要になる問題は、「自由」の問題だ。
【現代日本のリベラルに欠けているのは、なぜ右の全体主義であるナチズムを許さないリベラルが左の全体主義である共産主義を奉ずる人々に対して寛容であり得るのか。】という岩田氏の指摘は全くその通りで、これをリベラル自身が乗り越えていかないと、言論も何もあったものではない。
 岩田氏は日本的リベラルにある「レーニン主義」「左の全体主義」を認める面を厳しく論じている。
 前衛たる知識人、党が、労働者を指導するというレーニン主義の核心は、人々の自由を思想的な正しさの名の下で簒奪するところにある。徹底して自由を排除する思想、それがレーニン主義なのだ。様々な解釈を容認する思想の自由ではなく、ただ一つの正しい解釈を認識すべきだと考えるところに、レーニン主義の特徴があるといってよいだろう、と述べる。そして、しばしば日本的リベラルは……もしくは極端な保守主義は、このレーニン主義に近い状態になる。日本の思想的状況は、「レーニン主義VS反レーニン主義」になっていくのではないかと岩田氏は述べているように思う。では、そのレーニン主義に対抗するには、何があるかと言えば、著者の提示するリベラルな保守主義だ。

【私の考える保守主義とは、「垂直的共同体」としての我が国を意識し、祖先から継承した祖国を時代に合わせて漸進的に改良しながら、次世代へと受け渡す覚悟を抱くこと、そして、理性、思弁を否定するものではないが、それらを過度に信用することを戒める態度を有することである。
 従って、私の考える「リベラルな保守主義」とは、次のような思想を意味する。
 個人の自由を最大限尊重し、国家の過度な干渉を避け、社会的な弱者の声に耳を傾けるというリベラルな姿勢を保ちながら、我が国の存在が過去から継承されたもので、これを次世代によりよい形で引き継ぐという決意を有すること。そして、改良の際には、理性を過度に信ずることなく、伝統を尊重することだ。】

 これに対する反論として、いくつかある。
「日本は多民族国家になりつつあるので、他の国の人間の伝統はどうなるのか。他の国の人間の伝統のために、日本の伝統は多少の犠牲は仕方ないのではないか」
「伝統といっても、日本は差別や侵略を繰り返しており、とても受け継ぐような伝統はない。また、今伝統を思われていることは、明治とかに作られたもので偽物である」

 大きく、横軸縦軸的に「セレブなリベラルの仮面をかぶったレーニン主義的なるもの。自分たちの意見を聞き入れないひとをすべてファシストと判断する考え」っぽい反論があるとすればこの二つではないか。そして、この二つを実行した国はぶつかり合いが絶えず、右派政党が出てくるのを東浩紀は「リベラル疲れ」といって、リベラルであることに疲弊した国民に対してうまいネーミングをつけている。このリベラル疲れをどうするかについては、具体的な言葉は聞いたことがない。せいぜい、マックの女子高生のような存在とかに「いい感じの人権エピソード」を語らせてみるくらいしかないのではないか。もしリベラル疲れという指摘にたいする、具体的な反論・理論があるのならば、知りたいと思う。
 この二つの反論に対する反論として考えられるのは「日本国は日本人のものであるので、他国民の伝統や文化を弾圧するわけではないが、やはり日本とは何かを、日本国においては優先させていきたい。」となり、それだと「他国民を差別しているのか」という意見が出てくる。その場合、「例えばスポーツクラブで会員と非会員があって、会員を優先することは差別ではない」となる。そこからは泥沼の言論バトルとなるので、とても書ききれない展開になってくる。

 あとは、日韓基本条約によって「完全かつ最終的に解決された」問題について、法的責任を果たして、さらに道義的責任として「アジア女性基金」まで作ってもまだ問題が続いているのは、朝日新聞以上に、韓国側がどうにかしないとどうしようもないし、もうすでにそういう慰安婦問題ビジネスとして利権・金が出来上がって、戻れない状況に韓国側もなっているのではないかと思われた。北朝鮮に核武装を解除させるのが無理なように、韓国に慰安婦問題を終結させるのは無理なのだろう。
 あと河合栄次郎を「リベラルな保守」のモデルとして取り上げていて、その河合の「共産主義が歴史の必然であるのならば、なぜ今努力しないといけないのか。勝手にそうなるのではないか」という指摘は本当にそうで、面白かった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 国の学び
感想投稿日 : 2018年3月11日
読了日 : 2018年3月11日
本棚登録日 : 2018年3月11日

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