私説東京繁昌記 (ちくま文庫 こ 4-18)

  • 筑摩書房 (2002年4月1日発売)
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「私説東京繁昌記」

1980年代前半に文芸誌「海」に連載され、1992年にリフォーム・エディション版が発刊され、さらに少し写真など少し加えて2002年に出た文庫版がこの本。

作家の小林信彦氏が、アラーキーと一緒に東京を歩いて書いた本。
もちろん、写真はアラーキーだけどあくまで文章主体の本。

昨今流行の町歩き本ではなく、小林氏が東京の変貌ぶりをばっさばっさと斬りまくっている。

1964年の東京オリンピックで行われた開発と町名変更を「町殺し」と呼び、その町殺しを批判しようものなら、「保守主義者!」とどやしつけられかねない雰囲気が当時にあった。

オリンピックを前にした1964年夏は、東京でかつてない渇水が起き、8月6日からの給水時間は午前6-10時と午後5-10時のわずか9時間だった。
「東京砂漠」という言葉はこの時に生まれた。
   ・・・殺伐とした人間関係を表現する比喩ではなく、本当に水がなかったということになる。

佃島は、現在でいう大阪市西淀川区にあった佃村と大和田村の漁師が、大坂の陣において家康に協力したことがきっかけで江戸にて漁猟免許を得て移住したという話は有名で、佃島の名前や佃煮もそれが始まり。
しかし、移住してきた漁師は凄まじい関西漁法だったため、江戸の漁師を追いつめ、紛争が絶えなかった。
  ・・・この後半の話は知らなかった。

渋谷について
<公園通り>なる名称は、パルコ・パート1が開店したときの<すれちがう人が美しい--渋谷公園通り>なるコピーから出たものであり、、、、全共闘以後の、頭がカラッポで、ファッション感覚だけは人なみという<ヤング>にふさわしい、いかにも田舎者が考えそうなあか抜けないコピーとCMが、そうした<錯覚>(渋谷の坂道がなにかの文化施設のような錯覚を与えるという意味)を創り出したが、実体がゼロでは、<文化戦略>はおぼつかない。
  ・・・と手厳しく批判。もちろん、西武の文化戦略を行ったのは堤清二、すなわち作家の辻井 喬。そして、コピーは糸井重里氏。この本を書いた時には、まだ堤清二も生きていたし、糸井氏は時の人。なかなかの勇気というか、自信ありという書き方。

そして、最後に吉本隆明による解説がまた面白い。
そういうようにがんがんやっている小林信彦氏を、これまた遠慮無くバサバサ斬っているのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2021年3月15日
読了日 : 2014年5月15日
本棚登録日 : 2021年3月15日

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