ガセネッタ&シモネッタ (文春文庫 よ 21-1)

著者 :
  • 文藝春秋 (2003年6月10日発売)
3.65
  • (74)
  • (141)
  • (194)
  • (10)
  • (2)
本棚登録 : 1134
感想 : 124

高校2年生まで本を読んでいなかった、というのが私のオハコの台詞です。
新潮社から当時新装版で出ていたスティーヴンスンの『ジキルとハイド』が火付け役となって読書に没頭するようになったんです。それはそれで事実なのだが、高校2年まで読んでいなかったというのは厳密にいえば誇張である。図書館に通う熱心さはないまでも、本は家のそこここにあったのでぱらぱらめくっていた。たまにはナケナシの貯金を書籍代に向けたこともある。ではなぜわざわざ隠蔽しているかというと、本との向き合い方に難があったように思えてならず、少しでも文学少年のふりをするにはあまりに後ろめたいんだ。米原さんの本書を読んで告解する気を起こした。

米原さんが通った在プラハ・ソビエト学校では、児童間で文学全集を回し読みするという信じがたい遊びが営々と繰り広げられていた。全集本といえばいまのわたしでも怯む厚さである。その学校では分厚い一巻を落ち着いて読むこともままならないほど級友がせっついてくるので迅速に読まなくてはいけない。それで読む、読む。一回読んでヤレヤレと辟易するのかと思いきや再読、再再読、と粘り強く挑みかかったというのだから、アア彼らと我はどうやら生来違う生き物のようでと降参したくもなる。がしかし、全地球からプラハに集った児童たちを熱烈な輪読へと奔らせた根源は、じつは黎明を迎えたばかりの性衝動だったのである。世界の名だたる全集にみんなで踊りかかって未知なる性描写を汲み出しては歓喜に打ち震えていたのだという。それならわが身にも覚えがある! あまりに縁遠いエリート交友関係が展開されはじめた紙面から遠ざけかけた目が、ぎゅうっと引き戻された。

高校2年になんなんとするより先に、わたしは本を読んでいました。
ただその読みかたがいかんせん衝動の命じるままだったのでこれまで固く口を鎖ざして秘匿していたのです。上橋菜穂子の傑作『獣の奏者』は単行本で全巻読みました。王獣や闘蛇とエリンが意思疎通できた喜びや、ときにまったくのディスコミュニケーションゆえに起こる苦しみなど、読みどころが豊富にある本です。ご飯もおいしそうです。が、わたしが丁寧に丹念に、それこそ再再読するほど重きを置いて読み込んだページといえば殺戮と性愛の描写でありました。酸鼻をきわめる殺戮シーンは児童むけの文庫版が扱わなかった単行本後半におびただしくあり、鼻血を垂らすほどの性愛は件のシリーズの『外伝』がばっちり収録していた。大学の小説サークルで同級生が『外伝』について「昼ドラみたいだった」と論じていたのをわたしは聞き逃しませんでした。プラハ学校の児童たちが公然と衝動を共有したのに比して、胸のなかで禿同を表明するにとどめた点にわたしの小心者たる所以が宿っています。幼いあの日、ひとに決して明かさないまでもわたしは確かに猛烈に本を読んでいた。東野圭吾作品はその方面の衝動を(彼の名誉のため、も、と付しておこう)満足させる描写に富んでいたのであらかた読んだ。手塚治虫『ブラックジャック』についていま思い出せるのは第一に豊満な裸体というありさまである。学校をずる休みして全巻引っ張り出すほど愛読したのは『ケシカスくん』。読んでいたら妄想が膨らんでほんとうに熱が出た。また、早すぎるきらいはあるが筒井康隆に触れていた記憶もある。母が好きだったという原田宗典の文庫本も夜な夜なめくった。絶対明かさない衝動を秘めて読書に取り組んでいたわたしがはじめて公然と愛するようになった本が、二重人格を扱う『ジキルとハイド』だったというのはなんという因果だろうか。うまいこと時宜を得て、そして明かすための語彙を獲得して急遽文学青年の土俵に浮上できたといえそうである。

わたしが現在繰り広げる、節操を欠いた読書小史を振り返ったとき、断崖があるかに思われたそこに、じつは地続きの広大な大地があったことを思い出すいいきっかけになった。認めましょう、ずっとそこに本がありました。

読書状況:積読 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2023年11月14日
本棚登録日 : 2023年10月26日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする