摘便とお花見: 看護の語りの現象学 (シリーズケアをひらく)

著者 :
  • 医学書院 (2013年7月29日発売)
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感想 : 18
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看護師に対するデプスインタビューという珍しいアプローチの本。
自分を冷静に分析する淡々とした語りの中に、自分自身の悲しみを再自覚して時々ふっと涙。

[more]<blockquote>P42 困難な現実を引き受けていくプロセスは、人の一生のプロセスそのものであり、短期間に人為的に操作できるものではない。「受け入れなさい」と受容を迫られることそのものが暴力であるかのように感じられている。
【中略】現実を背負い込むということは、感情の水準で生じるものではないのである。共感とは異なるものなのである。

P55 感情移入に基づいて看護することと、所有しようとすることは同じ。経済という装置を用いたことが感情から離脱することを可能にする。経済関係の中でむしろ人は阻害されることなく出会うことができる。

P82 ケアって言えないものがいっぱいあるのかなって思ってて。でもそれは看護だろうって思うものはいっぱいあるんですね。

P87 ケアされ続けて何一つ果たせない自分という苦しさを反転するのは、この患者さんにとっては実は写真を撮るという趣味の回復ではなく奥さんにお土産を買うという贈り物だったのである。何かを果たすことが、妻のために何かをすることで達成されたのだ。意図を超えて、患者さんの意図が実現した時に「ケアの彼方」が実現している。

P89 この人のスイッチっていうのが見つかるときがあるんですよ。それがこう、看護かなって思ってます。

P122 (透析患者にたいして)逆に干渉しすぎるんじゃないですかねきっと。見えるから全部。

P134 言いたいことをしゃべるのは悪い看護だが、「人として素直に感情が伝えられている人」は良い看護師である。前者の悪い看護では「規範意識」から言いたいことを発せられているのに対し、後者のよい看護の時には規範意識を捨て去ったところで「看護師っていう役割を背負わずに人として素直に感情が」語られているからである。

P165 一つの状況の中で複数の関係者たちが別々の方向に行動することが、複雑化なのである。

P202 抗がん剤は「命の綱」として生死に直結するように患者に思える【中略】普通の薬とは「全く別で」「ドキドキ感」があるのだ。「ドキドキ感」は死という終着点が見えることに由来する。

P238 死生観を持っておられない方もいらっしゃるんですよね。死んだら終わりとか死に関して否定的なことをおっしゃる患者さんに対しては、悲しいだけじゃやっぱつらすぎるなっていうのがあって。それだったら幸せな時間をつくり出すことを演出してもいいのかなって思ったんですね。

P262 「何もできない」その時に行なわれる看護実践とは「生きている瞬間」への「立ち会い」である。

P299 人の死に生かされているって思うのは、その人はそのために生きてるわけじゃないからちょっと失礼だなとか思ったりもするんですけど。
(死にゆく)子供は贈り物をしたとは思っていない。客観的にも看護者のために子供が存在したり苦しんだりしているわけではない。看護者が勝手に贈り物として受け取っている。この時の贈り物は交換になることのない絶対的な贈与である。

P334 立ち会いと関係するのが沈黙である。沈黙の中で看護師が患者や家族に立ち会っていると思われる箇所がある。

P342 哲学において方法は、研究を実際にやってみてから後で決まるということだ。

P348 即興的な語りは、既に語られた内容を消すことができない。訂正しても訂正された内容は録音に残り、この訂正したということそのものが、背景の構造を暗示する手がかりとなる。その意味でインタビューに「否定」はない。語られたすべてが蓄積し、構造を成す。</blockquote>

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 本・雑誌
感想投稿日 : 2018年10月18日
読了日 : 2017年12月30日
本棚登録日 : 2018年10月18日

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