レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫 う 19-11)

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  • 文藝春秋 (2011年9月2日発売)
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第1章。自己の不能は、世界を俯瞰する視座を持たなければ自覚できない、それが「師」を持つことの意味。タルムード解釈では、見解の一致よりも、それぞれの章句からどれほど多様な意味を引き出しうるかが重視される。自己の不能を自覚する時、「他者」が私の前に現れる。「全体性を志向する主体のモデルがオデュッセウスであるとすれば、無限を志向する主体のモデルはアブラハムに求められる(87頁)」。
第2章。フッサールの現象学は、対象よりも意味という観念に優位性を与えたことにより、意味を持つが対象として十全には把持できないないもの、すなわち「他者」についての厳密な学となり得る可能性があった。フッサールは「見る」という事例(リンゴの木、さいころ)に即して対象認識を論じるが、レヴィナスは、「見る」という動作によってはほとんどその関係を記述したことにならないような対象(愛される人、書物)を、現象学的考察の主題にすえる(155頁)。「神を表象してはならない。「自分のために」偶像を作るとは、視覚を中心として、世界を整序することである(162頁)。フッサールの「他我」とレヴィナスの「他者」の違い。
第3章。「「あなたは私以上に倫理的であるべきだ」という言葉ほど非倫理的な言葉はこの世に存在しない。倫理性と主体性は「私はあなたより先に、あなた以上に有責である」という宣言によってはじめて基礎づけられる(303頁)」。「倫理を基礎づけるのはこの「選び」の直観である。「私は特別の地位にあるという意識、選びの意識を抜きにしては、道徳的意識はありえない(315頁)」。
などなど、今まであまり触れたことのない、ユダヤ教的な発想をベースにした思想が新鮮だった。これらを念頭におくと、ユダヤ教の選民思想や偶像崇拝の否定に対する見方もかわってくる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 思想
感想投稿日 : 2015年8月5日
読了日 : 2015年8月5日
本棚登録日 : 2015年8月5日

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