復讐と法律 (岩波文庫 青 147-3)

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  • 岩波書店 (1982年4月16日発売)
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5

法律といふものは単なる決まり事などではなく、ひとの総意といふ精神のひとつの形であるといふことが改めて感じられる。
復讐とは、個体や種の維持のためには必要なことである。黙つて殺される動物はなく、傷附けられたらそれ相応にやり返す。人間もまたさうである。
その復讐は集団の場合には、敵対集団を根こそぎ滅ぼさなければならない。さうでなければこちらが滅ぼされる。復讐の連鎖を止めるためには、相手を滅ぼさなければならない。
ある意味で集団の維持のためには復讐は推奨・承認されなければならない。この復讐こそが相手に対する抑止力となる。ここに復讐義務時代と画定されるものがある。
だが、集団の規模が巨大化し、社会と呼ばれるまでにシステム化されていくと、復讐を承認し続けることが難しくなる。集団のカテゴリーは小規模ではなく国といつた大規模なものにまで進んでいくと、国の中での復讐は止めなければならない。
さうでなければ内乱が生じ、国そのものの存続が危ぶまれる。そこで、復讐に制限が加わる。誰が誰に対して復讐を行うのか。さらには、復讐は公的に報告されねばならないといふことも。ここに復讐制限時代がある。
復讐が制限されていくといふことは、それに変つて復讐を担う存在があるといふことでもある。それが司法といつた公的存在なのである。司法はきちんと復讐を行えるやうに、被復讐者のために逃れの町や避難場所を用意し安易な殺戮が繰り返されないように統制する。
さうして公的な復讐のコントロールは、復讐か賠償かの選択を復讐者に求める。もちろん最初はうまくいかなくても、賠償の仲裁や仲立ちを行ふことで賠償を優先するように働きかける。
さうして復讐の代わりに賠償が課される。かうして復讐は賠償によつてとつてかはられる。
復讐が別の何かにおいて変られれば、刑罰による置き換へもなるほど納得がいく。
民事法における差押えにもこの経緯が適応されることも同様である。盗みに対する差押えから賠償といふことになりさうでさる。
どうしてさうなつてゐるかはわからないが、そのやうな変遷をたどつてきてゐるのである。こうした変遷を辿つて今があるといふなら、それはひとの精神の進化といふ自然淘汰・適者選択の結果なのだらう。
法律を進化論的に捉へることの可能性を彼は見出したのだ。
だが、ひとは罪に対して罰を課さねばならないといふことから離れられない。確かに復讐は禁止されるまでに至つた。それでもひとは、なおも殺人者に対して極刑を望む。特にそれが大切なひとであればあるほど。
何より死刑制度が今もあることに変りはない。罪にはそれ相応の報ひがなければひとは生きてはゆかれぬといふことなのか。
ここが何よりも不思議なのである。罪に対して罰があるといふこと。罰をうければ罪がなくなるといふわけでもなく、罰を与へることでその後の罪が起きなくなるといふ確証も、システム化の進んだ今では抑止力になることなどあまりない。
それでも罰を求めてしまふ。復讐の念の治まることないままひとはここまでやつてきた。この辺りのことを穂積先生はどのやうに考へていたのか。
そんな逃れられない性だからこそ、どこかで制限し強く禁止しなければならなかつたのかもしれない。法律とは元来禁止と義務のものだからである。
だが、彼のこの法律進化論の考へ方にしたがへば、いずれ刑罰による罪の償ひといふものも変つていく可能性を秘めてゐるといふことである。長い時間の中でひとは罪と罰の関係性から飛び立てるのかもしれない。
さういふ変化の可能性が法律にはあることを示したのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 評論・哲学・宗教
感想投稿日 : 2018年2月24日
読了日 : 2018年3月3日
本棚登録日 : 2018年2月24日

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