幸福な死 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1976年6月1日発売)
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感想 : 58
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カミュの未発行の作品。もしかすると、読まれることのなかったもの。しかし、それをこれが完成形として出版するのではなく、あくまで、未発表のものであって、彼がどのように試行錯誤しヴァリエーションを考えていたかまでも載せてくれる刊行者の態度のおかげで、カミュという存在に生きて出会える。
たぶんスタート地点は『異邦人』と同じ。生きるとは、死ぬとは、一体何なのだ。彼はずっとそのことを考えていたに違いない。生きていくことは死んでいくことである。彼にとって、死を考えることは生きることを考えることと同じである。
生きるとは、理由もなくどういうわけか、ここに存在してしまうことだ。そういう意味でひどく不条理なのだ。けれでも不条理であってもやはり存在できるということは条理でもある。このせめぎ合いを突き詰めたのが『異邦人』。
この『幸福な死』では、同じ生きるでも、その不条理性から攻めるのではなく、その幸福、善さから攻める。ひとが生きる限り、善く生きないことは不可能。幸福を求めずに生きることはできない。ならば、幸福とはいったい何なのだ。彼はそのための試行錯誤を繰り返して作品を考えていた。細かな時間設定、描写、配置、書いては消して、考えて。それをひとに伝えるために彼はずっと苦心していた。哲学者と違って、彼は緻密に論をたてるのではなく、ことばの感覚が与えるある一定の飛躍をもって、見せようとする。だから、どのようなイメージをみせるかについて、非常に細心の注意を払う。
幸福というものについて、彼は自然な死と意識された死という二部構成で臨んだ。
自然な死では、家族やおいする人間、金銭的なものについてから幸福を考える。しかし、それらがもたらすのはあくまで「自然な」死なのである。別にそれが悪いとか、不必要だとか彼は決して言っていない。ただ、それは「自然」なのだ。太古から変わることのない、そういうもの。しかし、人間が生きて存在するということはそういうばかりではない。
意識された死では、そういうものに煩わされることのない人間が向かう死を考える。なぜ、ザグルーの金を手に入れて満たされたメルソーを扱ったのかは知らぬ。だが、おそらくは、金が在ろうと無かろうと、死ぬことには変わりない、そういうカミュの考えがあってのことだとは思う。幸福に生きるとは、何かが満たされることとは関係ない。それを求められるそこにもう実現している。幸福への意志。これこそが幸福なのだ。
しかし、この時かれは気付いていなかったのかもしれない。あるいは、わざと書かなかったのかもしれない。この幸福の意志こそ、不条理で、反抗的なものであるということを。メルソーはムルソーと違って、意識的に何かすることはあまりない。メルソーは意志に気づいただけで、意志的に何かをすることはあまりなく、どこか、観察者のようなところがある。カミュがこれを発表しなかったのは、この意志的なものこそ、自分が考えていたものであって、これを書くにはこの『幸福な死』では不十分であると考えたからに違いない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 物語
感想投稿日 : 2016年5月29日
読了日 : 2016年5月29日
本棚登録日 : 2016年5月29日

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