思考と論理 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房 (2015年11月11日発売)
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感想 : 8
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考えるということ。それはことばなしにはできないという当たり前のこと。しかしこの当たり前が当たり前であることに驚けるのが考えることの始まりなんだと思う。
ことばそれ自体がある時点で、すでに論理というルールに従っている。ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム、永井均さんが各種SFや吉田戦車さんに対して論じていたことはここにあるような気がする。
人間の記憶はことばに依っている。そういう意味で記憶の論理は思い出であり、物語の論理ということだ。同じように量子論には量子論の論理が、科学には科学の論理がそれぞれある。
ドラえもんの翻訳こんにゃくで会話が原始人と成り立つのは、そういう意味でことばのルール、論理が共通しているからだ。青い色があって、それを青と表現する。青いものが見えていてもそれを赤といった場合、それを赤というかを差し置いて何かしらの青という点では共通していなければ言語が成り立たない。
自分と脳みそ関係についても養老先生が触れていた通り、構造と機能の関係に他ならない。構造には構造の論理が、機能には機能の論理がある。
流れる川やテセウスの船のこと、それがゾンビやロボットに心があるかという話題もそうだが、それらはどの論理に従っているか、この点をとりちがえる点にあると思う。
ことばには「ない」という表現ができない。ゼロがあってしまう。弁証法はこれが論理。科学には「始まり」が表現できない。こうした論理のそうでしかないというところを知るところから始まり、なにがしかの説ではないように思えてならない。正しいとはいつ何時、どんな状況でも成り立つものでなければそれは論理の正しさではない。とするなら、この正しいということばはいったいどこからきているというのか。それ自体ことばの意味を認めていなければ正しいとは言えないはずだ。この疑い、驚き、発見こそがカントの物自体、デカルトのわたしであり、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム、養老先生の脳であり、はじめに言葉ありきの過去の人間の端的な発見なんだと思う。この驚きを表現こそが大森先生の哲学であり、考えるということだと思う

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 評論・哲学・宗教
感想投稿日 : 2023年12月3日
読了日 : 2023年12月3日
本棚登録日 : 2023年12月3日

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