この映画は「映画を作り始めてからできるまで」の映画だ。
映画を撮ることはマゾヒズムの極致だ、というようなことを誰かが言っていた(ような気がする)。
そのことがこの映画を見ると良く分かる。
例えば小説を書くことは紙とペンさえあればできるかもしれない。
例えば歌を歌うにはギターさえあればよいのかもしれない。
しかし映画は違う。
どんな映画にも大体監督がいて、脚本家がいて、カメラマンがいて、照明がいて、キャストがいて・・・エンドロールを見ると何をやってるんだかよくわからないような人がゴマンといる。
そういう人らがそれぞれ一つの「映画」を作ろうとするのだからそらもう大変な作業だと思う。
キャストは口々に不平を言う。ノイローゼの女優。彼女に逃げられた男優。ゲイの男優。途中まで撮影したフィルムは簡単におじゃんになってまた振り出しに戻る。
そのころには季節は変わっていてもう雪のシーンが取れなかったり、撮影終盤まで来て俳優が事故で死んでしまったり、女優が妊娠してしまったり、猫に演出がわかってもらえなかったり(あたりまえか)。
そういった風に、映画を撮る、ということは困難の歴史であーる。
監督は映画を監督するのが仕事なのか、これだけの個性的な人々の不平を聴いたりすかしたりするのが仕事なのかわからなくなるだろう。
だから映画監督などというものは皆押し並べて困難が好きなマゾヒストなのだ。
しかし映画をとることがどんなに困難であろうとも、映画はなくならないだろう。そこに映画バカがいて、映画愛がある限り。
これはトリュフォーのそんな映画バカ宣言であり、一人の映画バカとしての「映画よ、ありがとう」という、
ドタバタ・(映画)ラブ・コメディだ!
- 感想投稿日 : 2010年6月15日
- 本棚登録日 : 2010年6月15日
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