伊豆の踊子 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (2003年5月5日発売)
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再読。
作者20代後半から30代前半の、比較的若い頃の作品4編。
再々読するときには、文化の違いをキーワードにせよ>未来の自分へ。
生まれ育ちがポストモダン的視点で、頑張ってもせいぜいWWⅡ以後が想像の範疇だが、本作はちょうどWWⅠとWWⅡの狭間の出来事なのだ。

「伊豆の踊子」
1926年。作者19歳当時なので1918年くらいの習俗。
「子供なんだ。私たちを見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背一ぱいに伸び上る程に子供なんだ」という嬉しさ。無垢を寿ぎたいが、穢したいという欲望のあり方が、40手前になってわからないでもない、が、約100年前の二十歳がそこまで処女性みたいなものに対して素直に喜んでいたというのは、さすがに文化の違いを思わざるをえない。
また、孤児根性云々については、作者の来歴を踏まえなければならない、やはりハードルの高い作品だと思う。
唐突に帰京を言い渡す末尾、結局はよそ者、という自意識のあり方も、なかなかに中年っぽい自意識。
たとえば沢田研二やエレファントカシマシ宮本浩次やRCサクセション「よそ者」みたいな。
帰る船で、偶然会話を交わした少年にのマントに潜り込む辺りは、「少年」から遡って関連作と見做す視点(約5年前に伊藤初代との婚約破断事件と同時期に 「湯ヶ島での思ひ出」を書き、約20年後に「少年」を書く)がなければ、いかにも唐突。
で、無垢に触れて、ぽろぽろ泣いて、空虚になって、スッキリする、その身勝手さは、さすが100年前のインテリゲンチャ! と笑ってしまうが、ポストモダンを何十年も後にした中年がそう思うだけで、発表当時やその後数十年は批判的視点なく名作と見做されていたと想像すると、そんな社会が怖い。

「温泉宿」
1930年。
地域二番手の温泉宿の手伝いと、その近くの曖昧宿に勤めるおおよそ10名の女性たちの、群像劇。
名前も境遇も似ているのでやや判別しづらいが、お滝、お雪、お清、お咲、の4人くらいに集中すればよさそう。
他作品でギョッとする冷酷な男性性みたいなものが本作には見えづらいが、地の文そのものが冷酷。

「抒情歌」
1932年。
wikipediaにいわく、
「幼少時から霊感の強かった川端は[26][27]、1919年(大正8年)に知り合った今東光の父親から聞いた神智学に興味を持ち、カミーユ・フラマリオンやオリバー・ロッジなどを愛読した[3]。」
また、ヘンリー・ジェイムズ(「ねじの回転」)は1843-1916,アーサー・コナン・ドイルは1859-1930、ジグムント・フロイトは1856-1939。そんな時代でもあるのだ。
しかし現代小説として読み直すなら、わたしーあなたー綾子さんの三角関係が、そういう磁場を発生させた、と。
でもこれって紫式部「源氏物語」で夢の形を借りて現れた嫉妬と呪詛と、似ている。
こわ……。

「禽獣」
1933年。
冷酷の極み。マジでイヤな作品だし作者自身も嫌悪していると言うが、だからこそ本質的なんだと思う。
作者が嫌悪の果てを探った挙句、誰にも理解できないものが生まれたのではなく、誰にもどこかしら共鳴し、なおかつ共鳴したことに眼を背けたくなるものが生まれてしまった……いい意味でも悪い意味でも奇蹟的な文章だと思う。
だいたい、「虚無のありがたさ」って、ナニ!? そんな文章表現、どこにあったの!? いまもあるの!? 今後あってもいいの!? イヤでイイ小説。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文学 日本 小説 /古典
感想投稿日 : 2022年10月18日
読了日 : 2014年1月1日
本棚登録日 : 2014年1月1日

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