茶色の朝

  • 大月書店 (2003年12月8日発売)
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SNSで「今こそ、茶色の朝を読もう」というイベントの書き込みを知った。

2014年12月31日。一年の締めくくり、次の年へと向かうエネルギーが急速に集束を見せる今この時に、一緒に、静かにこの本と向き合ってみませんか。そういった趣旨のこの呼びかけに出会えたことを、心のうちに、とても感謝する。

それは、いかにも大晦日にふさわしい。集まるでもパレードでもない。年の瀬こそは、内なるこころの動きに、耳を傾けるべきときなのだから。

「茶色の朝」は、社会にいつの間にか潜む全体主義、民主主義の剥奪への警戒を描いている作品だ。「茶色」でないものは、「茶色でない」という理由によって、その存在を否定される。そして、そういった事態に痛みや違和感を感じるけれど、とりわけ声を荒立てるでもなく、静かに順応していく、私たち。

ときどき「なんなの、それ」と声を荒げたりもするが、そんなことにわざわざ声を上げるほどには、社会も時代も自分ごとにはなっていない、私。

その「気持ちの悪さ」を、もっといちいち、噛みしめるべきなのだろうか。他にももっと、なんとかしたい「気持ちの悪さ」がいっぱいであるときに?

茶色の朝は、普通の人の無関心への警鐘して、世界で広く読まれている作品である。この本の背景は、日本語版の後半に記されている「メッセージ(高橋哲哉氏)」に詳しい。

「やり過ごさないこと、考えつつけること」と題されたこのメッセージこそ、茶色の朝に添えて、今の私たちは目を通すべき文章ではないかと、私は思った。

特定機密保持法、集団的自衛権、収束しない原子力発電事故となかったことにされる議論。

やり過ごさないこと、考え続けることを「厄介で取るに足らないこと」とする風潮の一部になってはだめだ。

人々の尊厳を踏みにじるような横柄な態度、その横柄さを生み出してしまった心の奥底にある闇(それは、私たち一人一人の奥で確かにつながっている)に、目を背けてはだめだ。

感情という、ともすればもっとも忌み嫌われるようなものを、私という個人の中において、しっかり、受け止め、次の一歩を自分で選ぶ。

その、繰り返しなのだと思う。

SNSよ。その存在は素敵であり、同時にとても恐ろしい巣窟だ。「私を見てよ」のうごめきが、人を飲み込もうとする。茶色への反対の陰にある(私を見てよ)(私もすごい)の声。そこへの霹靂した気持ちが、私たちを「社会」から遠ざけている側面もあるだろう。

人が自分に不満を抱えているとき「社会」というのは時としてちょうどいい憂さの晴らせる場所だからだ。

「茶色の朝」を訪れさせてはいけない。そしてそのためには、孤独な社会戦士としての自分を、ひとまずは受け止めることではないかと、私は、自分は、思うのだ。

「癒されるほか術を知らない、孤独な社会戦士としての私」。癒す力が自分にあることを知らずに、あなたにもあることを受け止められずに、「社会」という聖域を使って、「正義」という安全な剣を振りかざして、孤独のままで生きていく。

それでは、持たないと思うのだ。

茶色の朝はくる。

やり過ごさないこと、考え続けこと。

やり過ごさないための、ずるくない方法を感じ、自分のものとしたい。

考え続けること。そして、考えの罠に捕まる前に、感覚を研ぎ澄ましていくこと。

そういうことを、心がけていきたい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2014年12月31日
読了日 : 2014年12月31日
本棚登録日 : 2014年12月31日

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