歌行燈・高野聖 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1950年8月15日発売)
3.60
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本棚登録 : 1274
感想 : 94
5

個性的な温泉の気分です。一回漬かって気持ちいいと、何度でも漬かりたくなる。
独特の言葉遣いと節回し。これは、洋楽のウタ物を、言葉の意味だけではなくて、音やリズムでも愉しむ感覚に似ています。の、ような気がします。
一方で。
成程、こういう日本語の使い方は、確実に江戸時代や中世からの日本語を、現代に架け橋しているなあ、と思います。
無論、尾崎紅葉さんの門下ですから、紅葉さんがひとつ前に居る訳ですが。この、耽美でもって背徳的。ヒトの弱さが嫋やかに描かれる文章世界。芥川龍之介さんから谷崎潤一郎さん、恐らくは三島由紀夫さんであり丸谷才一さんであり村上春樹さんまで。脈々と日本語使いの水脈になっているんだろうなあ、と思いました。

この時代の小説や文章を読みなれていないと、ちょっぴり読みにくいと思います。
当たり前と言えば当たり前で、100年以上前の人が読んでたものですから。
しかもその頃に、書き手側が対象としていた人というのは、今の小説読者の数よりずっと少なかったですからね。
英語の歌とかを聴くときに、歌詞が厳密に判らなくてもなんとなく愉しめる感じがあると思います。
また、外国人と会話して、相手が特に英語圏の人の場合、なんとなく片言で意が通じることがあると思います。
もっと言うと、90歳とか80歳の人と会話するときに、同年配と会話するよりも、テンポと良い、言い回しと良い、今一つスムーズに行かないことがありますね。
でも、なんとなくそこで通じるときに、「ああ、それでも通じるなあ」と思うし、困難な分だけ通じたことに愉しみがあったりします。
読みなれていない文体、言語、言い回しの文章を読む感じって、それと似ていると思うんです。
でも、日常のコトバと違う分だけ、漬かってみると気持ちよかったりもする訳ですね。

泉鏡花さんの文章は、形容詞的な言葉が豊富だし、和服の描写とかも多い。2014年現在で言うと、相当にそういう方面の知識がないと、スラスラと読める訳は無いんですね。
僕も、スラスラ読めません。というか、「えっとこの一文は、良く判らん」と読み流していくことも、しばしばあります。
そこでその都度、立ち止まったり悩んだりしてもしょうがないので。
そんな粗い笊にでも、引っかかって残った物が面白い。のか、面白くないのか。そういうことでしかないかなあ、と。
その上、夏目漱石さんにせよ、芥川龍之介さんにせよ、泉鏡花さんにせよ、何しろ、「江戸時代と違う日本語の小説っていうのをどうやって作れるかなあ」と意識的に格闘されていますから、
ケッコウ、皆さん、言葉を自分で作ってるんですね。
当て字で漢字を作ったりとか。
今今の中学校高校で言うと、マチガイだったりするような言葉使いもいっぱいあります。
という訳で、ざくざくと流し読み。
それで面白いものが、面白いということになると思っています。

その上で、泉鏡花さんの文章、リズムというか、ちょっと七五調というか、「現代」ではなくて「近代」のテンポというか。
これはこれで、ある種音楽を聴いているよう、絵画を観ているような愉しみがありました。
内容が胸を打つ、というよりは、言い回し文章なんですよね。だから例えれば、意味合いや物語やコトバというより、感覚的な、理屈じゃない味わい。
ざくざく流し読んでいく中で、何とも豪華絢爛、和風で美の壺、ケレンに切ない言葉遣いに、ふっと気づくと「いい湯だな」という気分。

遙か遠い昔、中学生だか高校生の時分に、泉鏡花さんの小説はチョコットだけ読んだ記憶があります。
その頃には、あまりにも文章が素直に読めず、かつ結局のところは人情噺ぢゃないか、みたいな印象で、面白いと思えずに。
その上、何を読んだのかすら記憶の彼方に霞んでいました。
特段のきっかけはありませんが、多分、スマートフォンに変えてからか。
「青空文庫で無料で読めるんだなあ」と思いづつけていて。ふっと読んでみたということです。

一応、目安として新潮文庫さんの「高野聖・歌行燈」という文庫本を読むつもりで、同書収録の五編を通読。
「高野聖」「歌行燈」「女客」「売色鴨南蛮」「国貞えがく」。
上記の順に面白かった、というのが素直な印象。

近代日本文学、と言われる、「明治・大正・昭和前半くらいまでの、芥川賞的な色合いの小説」というくくりで言うと、難しいのは中短編が多い、ということですね。
雑誌への発表という、当時の小説の商品性からそうなってしまっているんだと思いますが、こうなると、ドレをまず読むか、というのがムツカシイ。
余程好きじゃない限り、全部読んで全部愉しめるかというと、そうでもないと思うんですよね。
ただ、出版社は出版社の都合で、美味しい有名作を一冊には集めないんで(笑)。いっぱい売りたいですからねえ。

閑話休題。
まず、上記五編で言えば、「高野聖」。次いでは、「歌行燈」ですね。

一応簡単に備忘録にしておきます。「高野聖」だけ、長めに備忘録。

●「高野聖」…旅の僧の語りの形式で、山奥の妖しい美女が、実は怖い妖力を持っているという、どきどきホラー気味の日本むかし話。
●「歌行燈」…旅道中の老人二人組、実は「能楽の名人ふたり組」。かつてその一人に破門され、今は旅暮らしに身を落とした「若い門付(大道芸人)の男」。破門された事件は、若い男が、気まぐれに素人謡いの老人を弄び恥をかかせ、自死に追いやったから。その自死した老人には、一人娘がいた。父の死後、身を落とした一人娘、今は「田舎芸者」。この4人が、偶然、桑名の街ですれ違う。前段がなかなか判りにくかったけど、四人の因縁が判ってきてからは、面白かった。罪の意識に生きている門付の男が、田舎芸者に踊りを教えた。その踊りを座敷で観て、名人二人組は、「あ、あいつが教えたんだ」と悟る。このあたり、なかなか切なく、良く出来ていて、読ませます。
●「女客」…互いに一家を構えている男女。背景が良く判らないんだけど、座敷で座って淡々とおしゃべりをするありさまから、かつて微妙に切ない関係だったんだなぁ、と判る。そして、今から二人の間で、ナニかが起こることはもうない、と判る。コレはコレで実はなかなか、省略の妙、水墨画、俳画の趣というか。ワカラナサが甘酸っぱいという、ケッコウこれは名短編。
●「売色鴨南蛮」…今は立派な医師になっている男が、街中で婦人とすれ違う。「あっ」となる。想い出が甦る。若い若い時代に、悪い仲間と悪い世界に落ちかかった時に。一緒に逃げて救ってくれた、かつて妾暮らしをしていた女性だった。若い頃の、悪い仲間たちとのぐじゃぐじゃした関係、そこでの屈折した心理が、鏡花文体で綴られるというか、謳われる。そんな中で、決してキレイ清純な身の上ではない若い女が、弱い者同士手に手を取って逃避行。そのあたりの甘美さが読ませます。なんていうか、映像的に言うと、スポットライトの抽象演出な感じが良く出てますね。あらすじの段取りで言うと、しばらく、女が身を売りながら、少年は夜学に通っていたが、ある日女は連行されちゃった…、という悲劇。医師になって邂逅するが、婦人は今で言う統合失調症でした、という。なんだか「わたしたちが孤児だった頃」な感じの終わり方。
●「国貞えがく」…読み方が雑だったのか、今一つ「?」という読後感。とある地方都市。若い男性が金を下ろして、親戚の家に。貧乏だったころに、金のかたに預けた国貞の錦絵を買い取りに来た。親戚の方が、渡したくなくて言を左右にする。という中で、かつて貧しく、自分の学費のためにその錦絵を売った、悲しい思い出が甦る。たぶん最後は、買い戻すんだろうな、という印象でおしまい。

こうやって思い出してみると、それぞれに実は味わいがあって、安易に「高野聖」と「歌行燈」だけでいいでしょう、みたいな言い方は出来ないなあ、と改めて。
まあ、それはそれとして。
以下、「高野聖」を眺めの備忘録。

#####「高野聖」#####

1900年、明治33年に雑誌に発表された小説です。
これは実に、うーんと唸るくらい面白かったです。
高野聖(こうやひじり)、というのは、和歌山県にある高野山に由来するものらしいですね。
高野山、というのは、金剛峰寺というお寺を代表に、いっぱいお寺が山上地域に密集している、という、変わった町なんですが。
もともとは平安時代に空海さんというお坊さんが、当時の権力=朝廷から高野山の土地を貰って、そこを自分なりの宗教都市にしようとしたんですね。
空海さんですから、大元の金剛峰寺なんかは真言宗なんだと思います。
で、中世以降。まあ鎌倉~室町~戦国という時代に、「俺たちは、俺は、高野山のお坊さんだよ。何らかの寄付を集めるとかそういうことで、旅してますよ」というお坊さんがいっぱい居たそうなんですね。
それが、高野聖、と呼ばれるお坊さんたちだったそうです。
ところがこれが、ある時代以降は真言宗じゃなくて浄土宗の方が多かった、とかいうオハナシらしくて。そのあたりは無学でよくわかりません。
まあ、真言宗っていうのは、素人知識で言っても、護摩壇で現世的なことを祈願したりする訳で。ややもすれば呪術に近い方向の、学究的な性格もありますね。
あんまり、地方田舎の庶民に食べやすい宗派ではないような。
浄土宗、浄土真宗は、何と言っても念仏一つで成仏極楽内定、というような印象ですから、旅の僧には向いているのかもしれません。

閑話休題。
と、いうような「高野聖」という立場の問題は、この小説はマッタク関係ありませんで。
つまりは「旅の僧」というタイトルでもOKです。

小説としては入れ子構造になっていまして。
旅をしている一般人の若者が、たまたま道連れになった、年老いた旅の僧から、寝物語に昔話を聞くんです。
その昔話が、小説としては餡子になっています。

その年老いた僧が、紅顔の若き旅僧だったころ。
飛騨の山越え、ということですから、今で言うと岐阜県とかなんですかね。
山奥を旅していました。
ひょんなことから悪路に迷い込み。蛭やら何やら、死にそうな目にあって。
ほうほうの体でたどり着いた、山の一軒家。
そこには美女と、今風に言えば知的障碍者の男性が、夫婦らしく住まわっていて。
なんのかんのと良くしてもらいます。
で、この美女が、それほど若くもないのでしょうが、実に何とも色っぽい。
ここいら辺の、その妖しい色っぽさの文章描写、文章演出が、得も言えぬ美しさ。日本語という伝達手段が、これほど滑らかにヌメらかに、美しくかつエロっぽく。なり得るものかと舌を巻きます。
別段に、直接的なH表現とか、わいせつ表現がある訳ではないんです。
ただ、もうこれは本当に、明治大正当時ですら、他の追随を許さない泉鏡花独特の、江戸的な香りを残しながらモダンでもある不思議な言葉世界ですね。

で、この美女が、何だか憂いがありまして。
山奥人知れぬ中、淋しく暮らす物憂いが、色っぽさ。ところが一方で、なんとも諦めと確信の中で、どん、と腹を据えて動じない強さみたいなものも併せ持っている。
旅の若き、恐らく美少年というか美青年である、このお坊さん。
正直言って、煩悩に焼かれます。うーん、あの奥さん?抱きたいな、と思ってしまったりする、一夜の宿。
ところが何とも不気味怪しげな生き物、けものたちの気配も感じながらの夜明かしで。
明けた翌日別れの朝まで、「もう全て捨ててここでこの女と暮らしちゃおうかなあ」。くよくよ後ろ髪、しかし別れて山を降りていくんですね。
そして。
「やっぱり戻ろうかしらん」と思いながらの山道で。出会った馬引きの親父。この親父、その女の家でも一度会っている。
そして、その親父から「よくぞ無事であの女の家から出てきた」と言われます。
なんと、その女の家で、女の色香に惑わされた男たちは、みな不思議な妖力で、哀れ獣の姿に変えられていた、という…。

と、言う、なんとも、「夏の日本むかし話、怪談編」みたいなお話なんです。

これを滑らかにヌメらかに語り下ろす、当時28歳の泉鏡花さんの日本語使いの手腕というか。
もう、ほんとうにイメージがくっきりと浮かんでは消えていくというか。

一読、旅の若き僧が、美女に導かれて川の水で体を洗うあたり。その清流の水の皮膚感的な気持ちよさ。
洗い落とされる、山の道中の疲れと汗の爽やかさ。
その一方で、洗ってくれている女の妖しい魅力。
もう、この川の下りだけでも、どくどくわくわくが止み難いコトバの清流、という味わいでした。

誰だったか忘れましたが、「泉鏡花の本を愉しまないのは、日本語で生きている人間として勿体ない」という言葉がありましたが、実にナルホド、納得の体験。

コレ、坂東玉三郎さんで歌舞伎になっているそうですね。
玉三郎さん、映画「外科室」を監督されていますし、泉鏡花さん大好きなのは、持ってる雰囲気通りですね。
ソレがシネマ歌舞伎になっているそうなので、チョット観てみたいなあ、と。

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読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 電子書籍
感想投稿日 : 2014年7月22日
読了日 : 2014年7月22日
本棚登録日 : 2014年7月22日

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コメント 2件

chapopoさんのコメント
2014/07/23

今月の歌舞伎座で坂東玉三郎様、『天守物語』をやっています。
泉鏡花作品で、まさしく『高野聖』のような話、素晴らしい舞台でした(調子に乗って3回も観てしまった)
言葉のリズム、描き出す幻想的な世界、可憐で奇妙に微妙にエロチックな雰囲気、原作は読んでないのでわかりませんが、舞台は玉三郎様の持っている雰囲気そのものでした。
私も他の作品も観てみたいと思いましたし、泉鏡花も読んでみようと思っていたところです。

koba-book2011さんのコメント
2014/07/23

三回も!
玉三郎さんは、泉鏡花のこと、好きなんですよね。似合います。

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