ゼロ年代はひきこもりから決断主義への移行。今は決断主義の臨界点。決断主義の限界=暴力、排除の論理。この限界の克服がゼロ年代末の現時点における課題。という感じに、東浩紀で止まってしまったゼロ年代の批評を批判的に再検討し、さらに現状から先への展望まで描いてみせる。かなり広い範囲から引用していながら、シンプルに構図を描いて、なるほどと思わせる。
一方で、決断主義の限界の克服の段になると、説得力に欠けてしまうのが残念。解決策は結局、仲間とか、日常の幸せ、という小さなところに落ち着いてしまう。それまでの、クールな分析に対して、ひどくなまぬるい。いろいろ分析してきた結果が結局それなの?と。
なんでなんだろうと考えてなんとなく感じたのは、著者自身が何かよりどころとなる確かなものを求めているという感じ。論理的にはポストモダン状況を不可避なものとしながら、心情としては確かなものを求めているんじゃないか。それは、強いお父さんであったり、優しいお母さんであったり、といった素朴なもののような気がする。頭が良いだけに、ポストモダン状況が不可避だってことは認めざるを得なくて、それ以前の大きな物語を肯定することはできない。でも、心の中ではそうでないところがあるから、そういうちぐはぐさが生じるんじゃないか。そのことについて著者自身がどこまで自覚しているかわわからない。
ただ、心情的な面を否定する必要はないと思う。問題なのは論理的にはポストモダン状況が不可避であるということと、確かなよりどころを求めるというちぐはぐさをどう乗り越えていくか、ということになるんじゃないか。そう思うんだけど、そのちぐはぐさが自覚されないまま放置されたままになっているのが少し残念。
- 感想投稿日 : 2010年7月9日
- 読了日 : 2010年7月9日
- 本棚登録日 : 2010年7月9日
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