七つの人形の恋物語 (海外ライブラリー)

  • 王国社 (1997年9月1日発売)
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本棚登録 : 135
感想 : 29

好きだというのが気恥ずかしくなるほど。あふれる優しさに思わずうつむいてしまう。打ち明けるにもためらいがちになる……。しかし、このベタベタに甘い作品に、一体何度泣かされたか分からない。お人形が可愛いなんて何歳まで通用すると思ってるんだと聞かれたら、むしろ、大人が開くからこそ溺れてしまう世界だと答えるしかない。

主人公のムーシュは、「そんながりがりの痩せっぽっちじゃその気になれない」ということか、ストリップ小屋では売り物にならず、客に愛されることなく追いはらわれてきた娘。ストリップ小屋なんてものが出てくる時点で、この作品に子供向けのレッテルは貼れない、大人が読めということではないのか。
そして、全く人間に愛されることもなければ、誰かに愛を注ぐということを知らぬまま中年に至った、ミシェルという男が出てくる。彼の屈折ぶりは相当、自分が誰かを好きになるということ自体許せないことのように思っている。
しかし、そんな二人の心にもやはり愛はあった。結末で訪れる救いの優しさ。言ってみればこの作品舞台には、はじめから二人しかいなかったのかもしれない。

土壇場まで、ミシェルははっきりさせることができない。七つの人形はミシェルの分身であり、ミシェルという一人の人間が、ムーシュを愛し見守っているのだということを……。その結果、皮肉屋で粗野で残酷な男が、にんじんさんだの狐さんだの、何とも可愛らしいお人形さんを通してのみ、愛を表現することになる。
ラヴリイな人形たちを操っているのは強面のおっさん。傍から見ると、結構怖い光景だったりするのかも。映像作品だったらたまげて椅子から転げ落ちたろうか。こういうことは文学作品だからこそ叶えられる話と言えそう。叶わないものが叶えられる世界、これぞ究極の夢物語である。

多重人格ものとしても面白く読める本だということは常々言及されているが、更に強引に考えてみた。ミシェルは七重人格、いや、本体を合わせると八重人格なのか? それよりは、「人格」というものの定義をもっと揺らがせてもいいかもしれない。

一人の人間という入れ物の中には、考えられないくらいたくさんの引き出しがある。いくつかは引き出す機会を得られぬまま、案外自分でも知らないうちに終わってしまったりするくらいに。
その中でも表面に浮上する「人格」とは、外部との接触に反応を示したり、対応を迫られたりするうち生まれる「役割」である。多重人格者の物語は、ある人格が笑いを、ある人格が怒りを、ある人格が泣き虫など、配役が決まっていることが多い。

視覚や聴覚に訴えて観客の共感を呼ぶ舞台芝居においては、なおさら役割分担が進む。登場人物のキャラクターが遠目にも分かりやすいよう意識しながら、特徴的に型抜かれる。
「この人物はこういう性格だ」という土台の上で、芝居は成り立つ。
あるいは、ある程度「こういう人なんだな」という前提があってこそ、対話は成立する。場所や相手など幾つかの条件が変更された時、まるで別の人格があらわれたとしても、それほど不自然ではない。

ミシェルという人物が持っている「前提」は、「怖いおっさん」だった。しかし、それはこれまで愛とは無縁に生きてきたがために、愛を外側にあらわす機会がなかっただけ。ないと思われていたあたたかな感情は、もとから彼の引き出しに入っていたのである。
一人の人間は、七つ八つどころか人は千の仮面を持っていて(『ガラスの仮面』か?)、思いもかけぬ時に最も意外な仮面をまとってやってくる。

面倒なことをたくさん論ってしまったが、女の子と七つの人形のやりとりが理屈抜きで可愛くてしょうがない恋物語、ということ。お気に入りの人形が出てきたら思いっきり拍手喝采、ムーシュと人形の絶妙のかけ合いを楽しむ。それでいいのだ。


『このベタベタに甘い作品に、一体何度泣かされたか分からない。』bk1書評から引越

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: bk1掲載書評
感想投稿日 : 2014年12月24日
読了日 : -
本棚登録日 : 2003年4月23日

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