イェーリングは最初に論文の結論を述べ、それを展開して、各論に繋げる。よって、最初の二頁を読んで暗唱すれば、自ずと著者の言わんとすることは通じるかと思われる。もちろん、著者はそんな読み方を期待しているどころか、止めろと言うだろう。中国の古典ならいざ知らず、私の展開しているのは現実に即した法理論なのだから、と。
しかしながら、私の短い書評では、その最初の部分を少し紹介して、而して、感想を述べるところまでが、私の役割だと思う。
曰く。
権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限りー世界が滅びるまでその必要はなくならないのだがー権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らうものから闘い取られねばならなかった。またあらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があることを前提にしている。権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きとした力なのである。だからこそ、片手に権利=法を量るための秤を持つ正義の女神は、もう一方の手で権利=法を貫くための剣を握っているのだ。秤を伴わない剣は裸の実力を、剣を伴わない秤は権利=法の無力を意味する。二つの要素は表裏一体をなすべきものであり、正義の女神が剣をとる力と、秤を操る技とのバランスがとれている場合にのみ、完全な権利=法状態が実現されることになる。(29p)
筆の多くは権利=法(レヒト)を運用するにあたり生ずる紛争の原理について述べているが、その前に大きな意味での「権利=法をつくるための闘争」についても、この原則が適用されるらしい。半分は当たり前のことを言っているようでもあるが、半分はかなり新鮮な指摘のようにも思える。またそうでなければならない。権利=法の運用とは、それだけ厳密でなければならないのだから。
権利=法が出来る時、諸国民は国家権力に多くは負けて来た。自由民権運動然り。最近では、秘密保護法、安保法制、共謀罪然り。しかし長い目で見れば、権利=法は、憲法の謳っている方向に「勝利」して来たのである。日本の国家権力は昭和22年世界の諸国民に負けて、国家権力の望まない権利=法を持った。よって、長い目で見ればいま日本にはその「反動」が来ているのかもしれない。やがてそれはアウフヘーベンされるだろう。なぜならば「秤を伴わない剣は裸の実力を」持たざるを得なくなるからである。但し、反動が来るまでに70年もかかったのだから、それを止揚するには、諸国民の闘争次第なのである。
2017年10月読了
- 感想投稿日 : 2017年10月8日
- 読了日 : 2017年10月8日
- 本棚登録日 : 2017年10月8日
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