夏の終り (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1966年11月14日発売)
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本棚登録 : 1008
感想 : 102
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映画「あちらにいる鬼」がとても面白かったので、面白かったのに、本書を紐解いた。映画は、中年を過ぎて男と確かに別れるために尼になるまでの、男と瀬戸内寂聴とその妻の不思議な三角関係を、淡々と描いたものだった。

本書も、著者と不倫男とその家庭との不思議な三角関係が出てくるが、映画の不倫男と本書の不倫男は現実でも別人である。むしろ、映画の前日譚だった。知っていて紐解いた。

1960年代。未だ不倫が不貞と言われていた時代だ。刊行年は昭和38年(1963年)。瀬戸内晴美(寂聴)が、新進の小説家として台頭していた頃。もしかして未だ井上光晴(「あちらにいる鬼」での不倫男)にも会っていないのかもしれない。晴美(もちろん、小説内では別名になっている。職業も違う)は、経済的に男に依存していない事を誇りにしている。現代ならば当たり前だが、当時としては娼婦以外では画期的だったのか。その他、女性から別れを切り出すとか、新しい不倫の形を描いたとして、当時は意義のある小説だったのかもしれない。

連作短編で前四篇は登場人物は同じで、むしろ長編の雰囲気。知子(晴美)は、売れない小説家の小杉と8年間付かず離れずの関係を持っていたが、昔の男と寝てしまった事をキッカケとして別れを切り出す。現代になって読んで驚くのは、あまり知られていなかった井上光晴との不倫の構造とあまりにも似ていたことである。

・知子は小杉と不倫の終わりかけに、やはり若い男とも関係を持ってしまう。
・小杉の妻は、長い間小杉の不倫を知りながら、知子を非難したり小杉を非難したりする事なく、淡々と過ごしていた。
・知子は小杉との関係を精算するためには、小杉が通ってくる自宅を畳んで他所に引越しをしなければならないと思い込む。男はそれを淡々と受け入れる。

コレは井上光晴の娘・井上荒野が書いた「あちらにいる鬼」と同じ経過だ。引越しの代わりに、もっと徹底的な「尼になる」ことを晴美が選んだに過ぎない。瀬戸内晴美は、全く同じ事を井上光晴との関係で繰り返したのだろうか。詳しい人はいるかもしれないが、今回そこまで調べることができなかった。

短編集の最後の1篇「雉子」だけは、登場人物の名前を変え、彼女の最初の不倫から子供を捨て、次の不倫の顛末までざっと振り返っている。そこで、以下のように「まとめ」のような記述がある(牧子とは瀬戸内晴美のこと)。

男に溺れこむ牧子の情緒は、いつの場合も、とめどもない無償の愛にみたされていた。それは娼婦の、無知で犠牲的な愛のかたちに似ていた。(略)牧子の愛は充たされるより充したかった。たいていの男は、おびただしい牧子の愛をうけとめかね、あふれさせ、その波に足をさらわれてしまう。結果的にみて、牧子に愛された男はみんな不幸になった。

←決定的な不幸を招く直前に、晴美は寂聴になったのだろうか?

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: な行 フィクション 
感想投稿日 : 2022年12月13日
読了日 : 2022年12月13日
本棚登録日 : 2022年12月13日

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コメント 7件

Macomi55さんのコメント
2022/12/13

kuma0504さん
こんにちは。今日もお邪魔します。
桜庭一樹さんの小説に「荒野」というのがあり、それは山之内荒野という思春期の女の子の主人公の名前なんです。その子の父親はプレイボーイの売れっ子小説家で、再婚相手を連れてくるんです。
井上光晴さん、寂聴さんの話と同じではありませんが、井上荒野さん親子のことを意識して書かれているように思えます。

kuma0504さんのコメント
2022/12/13

Macomi55さん、
あ、それは面白そうですね。桜庭さんはどの程度取材したのだろう。
「あちらにいる鬼」では、寂聴さんは決して井上光晴さんに結婚を迫りませんでした。
井上光晴さんが調布に家を建てアパート暮らしを引き払う、その同じタイミングで剃髪するのです。井上光晴さんが家庭を選び、コチラに走ってこないと寂聴さんが見極めたかの如く描かれています。井上荒野さん自身が、寂聴さんに詳細に取材して書いているので、かなり事実に近いはずです。寂聴さんは出来上がった作品を読んで「傑作よ!」とすぐ電話をかけてきたそうです。

荒野さんのお母さん、つまり井上光晴さんの妻がかなり変な人で、ほぼ泰然としている。しかも、本当は小説家としても才能があった。井上光晴さんの長崎原爆が落とされる前の日常を描いた「明日 一九四五年八月八日・長崎 」は、実は妻の作品であったことも、この中で暴露されています。それほど表に立つことを嫌っていた、という事らしい。広末涼子が淡々と演じていて、おそらく広末涼子のベストアクトです。

Macomi55さんのコメント
2022/12/13

kuma0504さん
いやあ、荒野さんも寂聴さんも大物ですね。器が大きい。でも二人とも心の中に鬼がいそう…怖っ。でも、荒野さんも寂聴さんも光晴さんも、みんな光晴さんの奥さんという閻魔さんみたいな人の大きな手のひらで転がされていたみたいですね。
広末涼子さん、そんな役出来るんですね。

kuma0504さんのコメント
2022/12/13

Macomi55さん、
そうですね。寂聴さんは、掌で転がされていたようにも思えるし、孫悟空として自由闊達な境地まで辿り着いたようにも思える。晩年は仲良し姉妹みたいになっていた、いや同志になっていたみたい。じゃあ寂聴さんの生の声はどうなのか?という事で、本書を紐解きました。

私としては、ほとんど苦手な分野ですが、つい手に取ってしまいました。

Macomi55さんのコメント
2022/12/13

kuma0504さん
なるほど、孫悟空か。あの方、ちょっとやんちゃそうに見えますもんね。好きなことやって晩年楽しそうで羨ましい。表面的にはなんでしょうが。
知的な方たちだから、色々あってもドロドロに汚れて終わらないんでしょうね。ああ、話が止まらない。このあたりで失礼します。

くろねこ・ぷぅさんのコメント
2022/12/15

「あちらにいる鬼」の冒頭にちょっと混乱しまして、検索したのですが、「夏の終り」に出てくる愛人は小田仁二郎という“売れない”作家だったようです。
対して井上光晴は「全身小説家」というドキュメント映画もあるし、本もたくさん出てますね。まあ、なんというかゴーストライターの存在もありですが。

小田仁二郎と別れることができたのに、また妻子ある男性に惹かれ展開してくのが「あちらにいる鬼」と思うんです。きっとこの時代、佐藤愛子の夫だった人も売れない作家で(「血脈」による)ぜんぜん、人から理解されないものを書くことを旨としていたらしく主張はかっこよくても「ヒモ」です。
きっと能力あるこの時代の女性はそういう男性を好きになってしまう傾向があるんでしょうか。難解な人って影があって魅力的ですからねぇ。

自分の欲望は求めていても理性は不倫にNOと言っていたんでしょう。
愛人と別れても男性がまわりにいたんでしょうがやっぱり同じ轍を踏んでしまう。これは彼女の言葉では表現できない性向なのでしょう・・・
その性向に待ったをかける寂聴さんの奥深さに感動しました。

私は映画、数年前の「夏の終り」も「あちらにいる鬼」も見られませんでしたので、小説だけ堪能?しました。見られなくて終わったけど、トヨエツがやらしそー?!と少々ビビっていたので(笑)見られなくても後悔はありません。(笑)

なんだか、ネタバレみたいなコメントで失礼しました~。

kuma0504さんのコメント
2022/12/15

くろねこ・ぷぅさん、こんばんは。
全然ネタバレじゃありませんよ。
むしろ、「夏の終わり」も「あちらにいる」もストーリーなんか、単なる不倫物語だからありふれている。見どころは、付かず離れずの関係の「いったいこの人何考えてんだろ」という事をいろいろ考えるところにあるのでしょう。

そういう意味でトヨエツは、なかなか食えない男でした。言うなれば人たらしです。ちょっとトランプで占いをやる。晴美の言って欲しい事をちゃんと言ってやる。上手いなあと思います。

広末涼子(実際もそうだったようですが)という才色兼美の妻がありながら、才能があって愛嬌があり、行動的な晴美さんを恋人にしてしまう。もはや羨ましいとも思えません。「夏の終わり」の方の映画は観ていないので近々観ようと思っています。

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