岬 附・東京災難画信

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  • 作品社 (2022年10月7日発売)
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2018年の東京旅で、もっとも印象に残った博物館は東京都復興記念館だった。そこで見た「東京災難画信」。以下、その博物館(言わばマニアック博物館)のレポートと、「画信」の書評を、当時のブログから再録する。


(略)そのあと江戸東京博物館北の東京都慰霊堂に行く。大正11年(1922)の関東大震災の折に大きな犠牲を出した焼死者の霊を供養し、東京復興を記念するために建てたらしい。その後、東京大空襲の遺骨も安置することになった。破風の屋根にコンクリート造り。関東大震災遭難死者58000人の遺骨を納め、東京大空襲の受難者の遺骨も合わせて、現在163000体の遺骨が安置されているという。

このあと、私は結果的にこの日1番の見応えのある博物館に出会うことになる。東京都復興記念館。言うなれば防災センター第一号。昭和6年建設。

館内には、震災および戦災の記念遺品や当時の状況を伝える絵画などが堂々と展示されていて、初めて観る絵も多く、圧倒された。

※ブログには段落ごとに写真を載せているが、ブクログでは叶わない。想像して欲しい。

これは1929年(昭和4年)の(大震災からの)大東京復興模型。埋立地や下町のほとんどがまだ復興半ばであることがわかる。

関東大震災時の写真も多くあり、圧倒された。これは皇居前広場の避難群衆。広場には約30万人が避難したと言われている。写真を三枚重ねて貴重な資料になっているが、ネガは戦災で失われたので、これが唯一の写真となった。

今にも火が押し寄せる写真。

これから燃えてくる日比谷交差点。

大震災で下町は全滅している。この6日間で歩いた地域に関して言うと、根津谷中千駄木上野以外は全て赤く塗られて全焼したということがわかる。わずかに残っていた古い家は、奇跡的に残ったか、戦後すぐに建てたものだ。

(略)竹久夢二の絵があまりにも悲しい。思わず買ってしまった。のちに詳しく読書レビューを書きます。

(略)とても興味深い「博物館」だった。


「竹久夢二 東京災難画信」竹久みなみ編
東京都復興記念館で500円で売っていた。一般書店やAmazonでは出ていないと思う。思う所のたくさんある書画の冊子だった。竹久夢二は関東大震災のちょうど11年後の9月1日に亡くなったという。夢二は、震災の翌日から精力的に下町に出かけスケッチを残し、都新聞(現東京新聞)に9月14日から10月11日まで連載している。テレビやラジオ、写真も少なかったこの頃、焦土の被災者を極めて素早く記録した貴重な絵と文章群である。
関東大震災は、死者行方不明者10万5千人を数えたという。震災の犠牲者としては、日本史上最大の惨禍であった。絵だからこそ、描けるモノがそこにある。しかも、夢二自身の文章もとてもいい。

奇跡的に焼け残った浅草観音堂のおみぐじを求める被災者の列。
「その隣で売っている家内安全、身代隆盛加護の護符の方が売行きが悪いのを私は見た。この人たちには、もはや家内も身代もないのであろう。今はただお御籤によって、明日の命を占っているのを私は見た」

9月3日の朝、夢二は不忍の池の端(弁天堂の近くなのではないか?)で、煙草の「朝日」を売っている娘を見る。夢二は、娘が売るものがあってラッキーだったとは思わない。「売るものをすべてなくした娘、とくに美しく生まれついた娘、最後のものまで売るであろう。(略)売ることを教えたものが誰であるかが考えられる。恐怖時代の次にくる極端な自己主義よりも、廃頽が恐ろしい」

31枚の絵の連載の中で、2回夢二は震災後の「外国人のための自警団」や「流言蜚語」に対して批判的な事を書いている。「朝鮮人虐殺」は、おそらく非常に速やかに広まり、そのことを速やかに憂いた知識人は、このように確かにいたのだ。9月19日掲載の絵である。
子供たちの「自警団ごっこ」を会話形式で描いている。ガキ大将が嫌がる万ちゃんに朝鮮人のマネをしろと命令する。「万公!敵にならないと打ち殺すぞ」そう脅かして無理やり追っかけているうちに「本当に万ちゃんを泣くまで殴りつけてしまった」と書く。「子供は戦争が好きなものだが、当節は、大人までが巡査の真似や軍人の真似をして好い気になって棒切を振りまわして、通行人の万ちゃんを困らしているのを見る」

私が正月2日から4日にかけてひたすら歩いた本所深川の絵もある。「被服廠跡」。
「災害の翌日に見た被服廠は実に死体の海だった。戦争の為に戦場で死んだ人達は、おそらくこれほど悲惨ではあるまい。ついさっきまで生活していた者が、何の為でもなく、死ぬ謂れもなく死んでゆくのだ。死にたくない、どうにかして生きたいと、もがき苦しんだ形がそのままに、苦患の波が、ひしめき重なっているのだ。相撲取らしい男は土俵の上で戦っているように眼に見えぬ敵にあらん限りの力を出した形で死んでいる。子を抱きしめて死んだ女は、哀れではあるがまだ美しい。血気の男の死と戦った形は、とても惨しくて、どうしても描く気になれなかった」「この絵は、最後の死体を焼いている16日に写生したものだ」

罹災者たちに少しでも食料を、というポスターの文章とともに載せた絵。

夜警団の夫の為に、ココアの準備をして待っている妻の絵。

遺骨を土産に、故郷に帰っていく人達を写した絵。
東日本大震災の後に、鴨長明「方丈記」は大きく注目されたが、竹久夢二のこの文章と絵はほとんど注目されなかった。もっと注目されるべき文章と絵だと思う。
(以上、引用終わり)

2022年刊行の『岬』解説(末國善己)によると、1923年8月20日、竹久夢二は「都新聞」朝刊で初の本格的新聞小説「岬」の連載を始めた。夢二自身が挿絵を担当したのだが、最初の半分の絵は荒い。9月1日に起きた関東大震災で原画が焼失したので、新聞のコピーを使っているためだろう。都新聞は9月4日に刊行を再開したが、「岬」は10月1日に連載を再開する。その間、9月14日からこの「東京災難画信」を連載している。これに似たルポルタージュは、「大震災印象記 大正むさしあぶみ」(「夕刊報知新聞」9月30日〜11月1日)、44人が参加した黎明社編集部編「震災画譜 画家の眼」(黎明社23年12月)などがあるが、夢二のそれはきわめて早かった。「岬」「画信」共に、今回初めて本になったという。「画信」を初めて見た時も思ったけど、これはもっともっと知られるべき画文集である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ま行 フィクション
感想投稿日 : 2023年7月26日
読了日 : 2023年7月26日
本棚登録日 : 2023年7月26日

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