粘菌とかいろいろ。
キマラタケとかキツネノチンボなど、陰茎に似る植物がどうたら論はある。
カシャボに関し、南方先生その辺で 全集にあるやつに、カシャボは火車だとかサンスクリット説はあほだとかカシャボに化かされた話とかカシャボに代表される化生のものが鳥の足をしてゐるのはとか、書いてあるのにカシャボとは折口信夫曰く「南方先生が」を持ってくるとか、三巻にあるのにマンドレイクに関する南方熊楠の興味を無視してナチスドイツがどうのだけを書くとか、かなりもやもやする。
いいけどすげえ皮肉で、南方先生はカシャボが馬をかまってどうのといふのと、ロシヤで川のなんかに関する儀礼(馬を川の神へ捧げる)を併せて紹介してるのだが、本書ではおさる関係に「後の石田英一郎の河童駒引考がどうの」は一切出てこない。
『岩田村大字岡の田中神社について』は引用で止まるが、その「大年神の子に聖神と向日神(古事記には「白日神」とあるが南方説では本居宣長の「この白は向の誤記」なのだがその辺の説明は一切なく本居宣長のなんとかが出るだけ)がでる件」と言ふ南方説に関して五来重先生の「ヒジリ=ひ治り(本書では「火知り」だけど)」説を出して、この辺は「柳田説に拘ったための南方の誤りと思う」ときて、「南方にとってひじりは火でも日でもよい」、つうて「小童(ヒジ)は依童を使った呪術者の」といふ柳田『毛坊主考』の引用を「南方の着眼点」と言ひ張る。聖神からヒジリに関する南方説で大年神のお子さんにファイヤーを司る「庭日神(庭の火を司る神)」ゐるけどオリエンテーション(「家相」の見立て)やる向日神と日の善悪を占ふヒジリの人に、ファイヤー部分ないけど。
注釈で、百合若は鬼若や牛若の如きドメスティックなナニであるとする。南方先生は一貫して「百合若=ユリシーズ」説を唱へてゐたけども。
あと適当なタームへアイヌの伝承を入れるとか、面白いんだけど、注釈があの、「他人のブログのコメント欄へ自分の記事を書く」やうな作業が延々。
- 感想投稿日 : 2020年1月28日
- 本棚登録日 : 2020年1月28日
みんなの感想をみる