「読」
朝井まかてを読むのは初めて。
イコンも山下りんも知らなかった。
御茶ノ水のニコライ堂は知っていたけれど、
山下りんの絵を見たことはなかったし、
もっと言うとキリスト教に種類?があることも知らなかった。
こんなに常識がなくても生きて来られた。
そんな感慨もある。「知らなかった」自分を知れたことが収穫。
時代小説っぽくて最初はとっつきにくかったが、すざまじい筆力に引き込まれた。
途中だれることもなく約500p弱を一気読み。
読書の醍醐味と思う。
こういう時代に生まれ、絵を描くことに邁進した女性がいたことに感動。
そして彼女を取りまく家族、とりわけお兄さんの温かさが胸に染みた。
これからニコライ堂の前を通るとき、この物語を思うだろう。
p265
--語らいは道中を短くし、歌は仕事を短くする。
ロシヤの諺。
p299
何をそうも泣くことがある。
「わかってしまったからです」
己がわかって、おののいている。わたしには神を想う心がない。修道女たちはそれを感じ取ったのだ。見抜かれた。わたしにとって、聖像画は芸術の一分野に過ぎなかった。けれど彼女たちにはすべてであった。
芸術と信仰。
最大の行き違いはそこにあった。それがこうも、悲しいなんて。
p345
「ロシヤの聖像画が世俗的な芸術に翻弄されてしまう前の、崇高なる画です。わたくしはその源流を辿りたくて、ギリシャ語も学びました」
混乱した。
「世俗的な芸術に翻弄された。ロシヤの聖像画が?」
「さようです。聖書の物語を題材にしていても、それが聖なる画だとは限りません。ルネサンスの伊太利画を無闇に追うと信仰から遠ざかります。ルネサンスは人間性を謳歌する芸術至上主義。大変に魅力的です。でもわたくしは信仰者として懐疑します。聖像画は芸術であってはなりません」
p348
「ホンタネジー先生の教え。美麗であるかどうかに心を砕いてはいけません。まず、真(まこと)を写すことです」
p436
聖像画は、単に宗教的主題を描いた絵画ではない。オリガ姉に教えられたのち、自身で調べ、考えを尽くしてきた。そう、聖像画は人々の信心、崇敬を媒介するものだ。窓だ。この窓を通して、祈る者は神と生神女、聖人たちと一体になる。ゆえに画師は独自の解釈を排し、古式を守らねばならない。
※生神女(しょうしんじょ 神を生みし女)
p455
宣教師、持っている宝、他を憐れむ心だけなのす。
(ニコライ大主教)
p464
いつしか一心に祈りながら描いていた。この画を通して悪や迷いを払い、心が神に向かうように。そして神の御照らしが人々に与えられるように。人々がほんの一匙でも幸福を分かち合い、悲しみや苦しみが癒えるように。
ああ、と胸が轟いた。
聖像画を描くことそのものが、祈りだ。
p490
描くことは祈りそのものだ。そして祈りは自らのためではなく、他者に捧げるものなのだろう。
白光の彼方にいる姉たちに捧げる。
宣教師
- 感想投稿日 : 2022年3月30日
- 読了日 : 2022年3月30日
- 本棚登録日 : 2022年3月30日
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