新しいカノン(正典)として「文学全集を立ち上げる」ために当代きっての博識碩学の批評家文学者作家のやんややんやの鼎談ですが、これはあくまで「仮想全集」目録作成の試みでありつつ、ギリシャラテンの世界の古典から大江健三郎まで古今東西の作品を紐解きながら全集所蔵作品をバッサバッサと選定する中で「これ本当に入れる?」「入れないわけにいかないでしょ」「僕はこれつまらないな」的な火花飛び散るシーンも散見されるので、書き起こし前の録音聴いたらもっと楽しいのではないかと胸騒ぎが止みません。
つまるとこ「全集編纂」とはすなわち「文学史再検証」にあたり、さらには鼎談者三名の主義主張の「文学宣言」をも顕にしてしまわざるをえず(また文学宣言は前衛宣言イコールパラダイム批判)、にもかかわらず冊数分量バランスの制約という全集ならではの妥協選定も鑑みると、歴史記述とはやはり今から振り返って見えたところの「生起」から「帰結」へ至る長い長いSTORYを幹として枝葉を剪定していかねばならぬというそのまんま「正史」観であり、そのSTORYこそが実は選定者が信じるカノンであるという事実もありますが、「世界は一冊の書物」的なマラルメ的なオチをシタり顔で述べれば選者三名に失礼にあたり、当然選者三名はその痒さは自覚の上でなくては選定=剪定は出来まいし、だいたいカノンという設定自体が21世紀には野蛮であるわけだからこそ、その野蛮と啓蒙の間の暴論をも厭わないのが優雅なるエンターテイメントの条件でもあります。
鹿島氏が同時代サブカルの文脈なくして正史作品語れないだろうまた正史作品がサブカルに与える影響(太宰から昭和歌謡曲論)の今様の文化批評をさらっと語り、丸谷氏の「つまるつまらない」で切り捨てられた文学史教科書的作品たちはかえって煩悩が晴れて成仏してくれそうに見え、三浦氏の津軽愛と戯曲愛だけで外史が作れる違いないと確信が持てながら、最後は鼎談自体がバッツンとカットアウトされて終わるあたりが、また其の後の酒宴のオフレコがもっと楽しいことになっていたに違いないと胸騒ぎが止みません。
個人的な暴論を言えば、全集編纂とは結局は「手相見」にも似て過去確かに生きていた証の掌の皺から健康や長寿、性格や結婚恋愛、はては人生の成功可否まで占うような世界観であり、結局は全集を編むことは未来を占い、その未来への「願い」でもあるものだと思えば、どんなジャンルでも各自各様に仮想全集を編纂していくのも善いのではないかと思え、また本件「仮想」であるからこそ「ブックガイド」にもあたるので、Web版にしてハイパーリンクを仕込んでストア導線や世のパブリックドメイン(青空文庫など)へのリンクがあると素敵な試みになるのではないのかと思います。
つまり「ブクログ」でもやれるわけです。
- 感想投稿日 : 2014年5月27日
- 読了日 : 2014年5月26日
- 本棚登録日 : 2014年5月17日
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