少し前に「津軽」のレビューを書いた際、りまのさんから、この本の中の「駈込み訴え」をお勧めいただいた。
以下、この短編集の中で、私が気に入ったもの。
「駈込み訴え」
キリストの弟子であったが最後に裏切ってキリストを売る、ユダの話。
うん…うん…。分かる…分かる。
分かるよ。人一倍敬愛しているのに、何故か、気のせいかその人は自分だけに厳しいと感じることってある。きっと自分への愛情故に厳しくして下さっているのだと思ってみるのだが、やはり違う。聖人なんていない。どんな人にだって好き嫌いはある。残念ながら、自分はそのお方に嫌われているようだと自覚するときの悲しさ。同等だと思っている奴に嫌われるなら別に良い。でも、自分が敬愛して何もかも投げ出して付き従って来た人にだったら?キリスト教の中ではキリストは聖人でユダは汚い裏切り者。その見方は変わることがない。なんて残酷なことだろう。「よくぞ書いてくれました。」と拍手を送りたい。
でも、次のようなセリフに見られるキリストの考え方も本当だったのだろうと思う。
「寂しい時に寂しそうな面持ちをするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人に分かってもらおうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。……寂しさを人に分かってもらわなくても、どこか目に見えない所にいるお前の誠の父だけが、分かって下さったならそれで良いではないか。」
これが太宰の理想でもあったのだと思う。
しかしながら、ユダがキリストを売って、銀貨30枚を貰い、自分をあっさり商人だと認めてしまったのもやはり、人間の真の姿。人には二面性がある。宗教はそういう人間の弱さを認めるものであってほしい。
「女生徒」
思春期の少女のモヤモヤした憂鬱な心の中を見事に表現している。
「朝、目を覚ます時の気持ちは……箱の中に小さい箱があって、そいつを開けるとまた、小さい箱があって、その小さな箱を開けるとまたまた小さな箱があって……とうとうお終いにサイコロくらいの小さい箱が出てきて、そいつをそっと開けてみて、何もない。空っぽ。あの感じ、少し近い。」
「小金井の家が懐かしい。……あの、いいお家には、お父さんもいらっしゃったし、お姉さんもいた。お母さんだって、若かった。……本当に楽しかった。自分を見つめたり、不潔にぎくしゃくすることもなく、ただ甘えておればよかったのだ。なんという大きな特権を私は享受していたことだろう。……けれども、少しずつ大きくなるにつれて、だいいち私が自身いやらしくなって、私の特権はいつの間にか消失して、あかはだか、醜い醜い。…」
「今に大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘しさは、おかしなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかもしれないのだけれど、その大人になるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。」
その他、電車で隣合ったおばさんが厚化粧だけど、首の皺が目立って醜いだとか(その気持ち分かるけど、今は私、そうやって見られてるほう)、二匹飼っている犬のうち、片輪で醜いほうが可哀相だからわざと可愛がってやらないだとか、この時期の少女じゃなくても、おばさんにも分かるよ、その気持ち、っていう心のうちが本当に見ごとに書かれていた。だけど、おばさんはそういう自分の気持ちに気づいてドキっとしたり、そんな嫌らしい考えを持つ自分自身に傷ついたり、そういうことがないんだ。色々なこと分かってしまったから、楽だけど、そういうガラスの心みたいなのもう、ないんだな。
これを書かれたのは男性の太宰さんなんですね。すごいです。
その他、太宰治のことを本当にいつも心配している故郷の呉服屋の中畑さんと津島家御用達の洋服屋の北さんが、勘当状態のようになっている実家に里帰り出来るように、奔走してくれる「帰去来」「故郷」とか、奥さんと初めてお見合いして、ひと目で結婚を決めた「富嶽百景」(「富士には月見草がよく似合う」で有名)とか気に入ったのだが、レビューが長くなりすぎたので、割愛します。
- 感想投稿日 : 2021年2月4日
- 読了日 : 2021年2月4日
- 本棚登録日 : 2021年1月21日
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