「生の美学」というのが、フーコーの最後のメッセージなのかな?
「性の歴史」第1巻は「知への意志」(1976年)で、いわゆる「生政治」という刺激的な概念を打ち出したきわめて刺激的な本だったのだが、8年間をおいて、フーコーの死の直前にだされた「快楽の活用」(1984)は、淡々とした静謐な感じの本でその差にあらためて驚く。
出版当時は、フーコーも最後はボケてたんじゃない?病との戦いでつかれてギリシアの世界に逃避してるんじゃない?みたいな受け止めもあった気がする。
今となっては、第1巻と第2巻の間の8年間は沈黙の時期ではなく、本としては出版されなくても、「生政治」の詳細な分析、そしてさらにそこから倫理性の問題への転換、そして真理の勇気と先鋭的な思索が続いていた極めて活動的な時期であったことがわかっている。
第1巻では、現代の「性(への抑圧?)」を議論するのを「ビクトリア朝」的ブルジョア道徳(とそこからの「解放」)から始めるのではなく、キリスト教的な性・身体・告白を起点に分析していくという方向性が示されていた。
が、8年後にでた第2巻の分析対象は古代ギリシア時代と大きな計画の変更が生じている。
とはいえ最初のプランが全くなくなったわけではなく、おそらく西欧社会の最初まで戻って、そこを起点にキリスト教的な身体・告白というもともと第1巻時点で想定していた分析を踏まえて、現代社会に戻ってくる構成であったのだが、第4巻の「肉の告白」にたどり着く前にフーコーはエイズでなくなったということのようだ。
「知への意志」で示された権力理論はきわめて刺激的なのだが、精緻な議論であるがゆえに、ちょっと出口がない袋小路で、「生政治」の分析をいくらやってもなんかの希望がでてくる感じではなかった。
袋小路感を一番感じていたのはフーコー自身で、その乗り越えを目指して、西欧社会の起源ともいうべき古典ギリシアまで戻ってみたのだろう。ギリシアといえば、同性愛に寛容な社会なので、そこになんかヒントはあるのでは、みたいな?
が、それにしても、この本の淡々としたトーンは驚く。内容的にも、単純に「同性愛が普通だった」みたいなことにはならず、「養生術」「家庭管理術」「恋愛術」など、ギリシアの古典等の分析を踏まえて、中庸を大切にして、自分自身をしっかり修養しましょうね、みたいな話になっている。
「性の歴史」の当初プランが変更になったことを説明してある序文がなければ、ギリシア時代の「性」についていろいろな文献を整理した「普通」の歴史書にしか読めないかもしれない。
80年代のフーコーの講義もギリシア〜ローマ時代を中心になされているのだが、そこでは、テーマや分析対象の時代の変化はあれ、いつものフーコー的なスリリングな議論展開がある。フーコーがなくなった84年の講義「真理の勇気」もきわめてスリリングなものであったことを思い起こせば、この「快楽の活用」の穏やかさの尋常ではない感じはさらに強まる。
当時のいろいろな事情をわかった上で読んでもこう思ってしまうので、出版当時にこれを読んだ人たちはさぞや驚いただろうな〜、とあらためて思った。
そして、きっとこの意図された穏やかさのなかに、フーコーのある種の希望のメッセージがあるのだろう。わたしはまだそこを発見するには至ってないのだが。。。。
- 感想投稿日 : 2018年12月28日
- 読了日 : 2018年12月28日
- 本棚登録日 : 2018年12月28日
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