川端康成集: 片腕 (ちくま文庫 ふ 36-1 文豪怪談傑作選)

著者 :
制作 : 東雅夫 
  • 筑摩書房 (2006年7月1日発売)
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感想 : 29

乗代雄介「本物の読書家」 茨城・土浦市
「わたしは『片腕』を川端先生にくれてやったのです」
2020/5/16付
日本経済新聞 夕刊
〈「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。〉

東京からの常磐線列車が土浦駅をたつと、ハス田が広がる。立ち枯れたハスが茎を突き出していた=山口朋秀撮影
1963年に連載が始まった川端康成の「片腕」の冒頭である。
多くの言語に訳され、世界の人々が知るところになった実験的な小品には、無名の原作者がいた。東京・上野から茨城・高萩に向かうJR常磐線の車中で、その驚くべき秘密が解き明かされる――。
もちろん、虚構だ。
本作はミステリー仕立てでありながら、カフカ、ナボコフ、サリンジャーなどの作品が随時、参照される。そして推理小説の「叙述トリック」とでもいうべき語り……。この辺でやめておこう。
もし、読者が文学愛好家、ミステリーファン、鉄道マニアのいずれか、または全部だったら、この小説を存分に味わい尽くすだろう。再読したくなる。と言うより、せざるを得ない厄介な一編だ。
〈土浦駅を発つと蓮田が連なって続いた〉

何気ない描写から、物語は一気に佳境に進む。
茨城・霞ケ浦周辺は屈指のレンコン産地だ。老人ホームに入所するため常磐線に乗った寄る辺ない〈原作者〉は、車窓に広がるハス沼の記憶をきっかけにノーベル賞作家との秘めた因縁を語るのか。それとも語りとは、心底、共感する聞き手がいない限り、語られないほうがましなのか。
列車が土浦駅を出て20分ほどの間。その問いをめぐる山場が訪れる。老人と、真相を探ろうとする探偵役の博識の「読書家」が交わす緊密な対話は、それが小説家が仕立てた虚構だと分かっていながら、いや、虚構ゆえに読み手の心をひどくざわつかせる。

読むこと。書くこと。語ること。あるいは、誰にも届かなかった言葉。それらの営みには、たどり着く岸辺のようなものがあるのだろうか。
そんな思いに浸りつつ、常磐線のボックス席から霞ケ浦湖畔の景色をぼんやり眺めた。列車はハス沼に別れを告げ、古歌に詠まれた恋瀬川の鉄橋を渡る。古い商家の建築群で知られる石岡駅が近い。
そう言えば当駅は、若き作家の近著「最高の任務」に描かれた舞台のひとつだ。途中下車して山に向かって歩いてみようか。急ぐことはない。楽しみにとっておこう。
(編集委員 和歌山章彦)

のりしろ・ゆうすけ(1986~) 北海道生まれ。2015年、デビュー作「十七八より」で群像新人文学賞を受賞。多和田葉子さんらが推した。受賞作は、早世した叔母を追慕し、日々、故人と対話を重ねることで自己形成する〈阿佐美景子〉という若い女性が視点人物で、一種の「教養小説」のような味わいがある。
17年に刊行された「本物の読書家」に併載された「未熟な同感者」、昨年下期の芥川賞候補作になった近著「最高の任務」は、いずれも阿佐美家の物語だ。「フラニーとゾーイー」など、「グラス家」の人々を描いたサリンジャーの連作のように、乗代さんのライフワークになるのだろうか。

読書状況:読みたい 公開設定:公開
カテゴリ: Entertainment
感想投稿日 : 2020年5月28日
本棚登録日 : 2020年5月28日

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