幻影の明治: 名もなき人びとの肖像 (870) (平凡社ライブラリー わ 2-2)

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  • 平凡社 (2018年8月17日発売)
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詩の定義とは何だろう。
手元の辞書には、「自然や人事について起こる感動などを圧縮した形で表現した文学。……」新選国語辞典、とある。
そして、よく悩んだのが長恨歌だ。
これは、お話ではないの? と、はじめは悩んだ。詩って、何だろう。まあ、定義にこだわる必要はないんだと思い直しもしたけれど。
それでも「詩的な」という表現は、なにやら、美しいものがあることを想起させられる。
的確で、簡潔でいて、美しく感じる文章、それを「詩」だと思う。

本書の中の、「鑑三に試問されて」を読んでいて、まさに、これは詩ではなかろうか、という思いにとらわれた。

一杯の粥によって始まる朝の穏やかな浄福に浸されるとき、人は、俗世における野心や利害からつかの間超越しているのだ。欲念や憎悪や孤独からふっと解き放たれているのだ。街角でさして来る斜光を浴びて一瞬世界が変貌したり、空を圧する密雲の切れ目に一筋塗られたコバルトを見出したりするとき、現世を超越していま在るという思いは偽りではない。義しいか義しくないかも最早問題ではない。……以下略


このように表現している渡辺京二の内部には、詩の世界が広がっていなければ、評論を詩にすることはできない。端正な文体は、時に、評論や叙述で在ることを忘れさせ、詩に触れさせる。
丹念な職人の手仕事が、鍛錬されたスポーツマンの競技姿が芸術であるのと同様に、端正な文体もまた、詩という芸術になるのだろう。
山田風太郎の作品のあらすじを述べる中で、作中人物が強姦を働くような描写でも、下品にならないのはさすがだと思った。ただし、氏は女性が好きなんだろうなあ、というのは、全体を通してよく伝わってきたけれども。

さて、詩かどうかは印象の問題と芸術性の問題であって、内容は、明治についての評論集である。
浅学なわたしには、明治という時代が明確でない。通常の学校教育の範囲すら危うい。先年放送されていた「西郷どん」で時代の雰囲気を感じる程度でしかなく、その後の日本の近代化の軌跡となれば、さらに不明瞭だ。

そんなわけで、内容をどうこういえるはずもなく、そうか、とうなずくよりほかないわたしだから、内容とは別に面白いと感じたことを書きたい。
歴史学者の磯田氏は、司馬遼太郎を歴史小説の書き手として高く評価し、そうした書き手が増えていくことを願っている文章を以前読んだが、渡辺氏は、「第三章 旅順の城は落ちずとも」で、司馬遼太郎の歴史認識に大きく疑問を呈している。これまた、司馬遼太郎の多くも未読のわたしには「歴史認識」などという大それたものはないのだから、二人の立場を面白く思うのみだけれども。

歴史というのは、勝者が自由に改ざんできる歴史書と、どの立場か難しいジャーナリズムと、エンターテーメント性の高い小説やドラマ(映画)、今ではマンガなどで、人々の中に作り上げられるイメージの総体が大半だろうと思う。
そうした中で、氏が見つめたいのは、その合間に行き交う人々、夜空であれば、光る星々の間にある黒い隈に隠れた、地球まで光の届かない無数の星々なのだろう。
見えていないけれど、存在する星々は、自ら光り輝かなくとも、詩のような言葉を添えられて、つかの間、わたしたちに姿を垣間見せてくれる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2019年2月11日
読了日 : 2019年2月11日
本棚登録日 : 2019年2月11日

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