あたかも第1次世界大戦から第2次世界大戦までの航空戦の通史を思わせる書名だがさにあらず。日本において軍部やメディアが戦争における軍用機や航空戦の必然性・必要性をいかに宣伝し啓蒙したか、大衆がいかにそれを受容して航空戦力を主とする総力戦体制の担い手となったか、その変容を多彩な史料から明らかにしている。 単なる戦史、兵器開発史では全くなく、常に「銃後」としての地域社会とそこに生きる人々が視野に入った社会史的な研究となっている。
本書が再三強調するのは、戦後人口に膾炙した「日本軍は時代錯誤の大艦巨砲主義を信奉し、空軍力を軽視した」式の主張は事実ではなく、第1次大戦以降、陸海軍やそれに付随したメディアは航空戦が戦争の主役となったこと、それゆえ飛行機の軍事利用の重要性をことあるごとに喧伝し、大衆レベルでも女性や子どもまで含めて受容していたという点である(むしろ軍艦増強を続けるアメリカ批判の文脈で「大艦巨砲主義」が用いられた)。非合理な精神主義ゆえに対米戦争に突入したのではなく、日本は国力で劣るというリアルな共通認識ゆえに、集中投資的な航空戦力をもって早期決戦を図るという、疑似合理性を装った思考が好戦的世論を形成したとみなす。飛行機の威力が戦局の帰趨を決するという認識が国民的に共有されていたからこそ、戦時期の航空機増産体制は支持され、航空「特攻」も受容されたという見方は説得力に富む。今日の排外的・好戦的世論や政治、あるいはゲームやアニメなど娯楽コンテンツにおける「ミリタリーもの」の「啓蒙」効果を批判的に捉える上で、参考にもなろう。
- 感想投稿日 : 2018年9月23日
- 読了日 : 2018年9月23日
- 本棚登録日 : 2018年9月23日
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