川端康成集: 片腕 (ちくま文庫 ふ 36-1 文豪怪談傑作選)

著者 :
制作 : 東雅夫 
  • 筑摩書房 (2006年7月1日発売)
3.81
  • (25)
  • (30)
  • (44)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 383
感想 : 29

『片腕』と『みずうみ』における恋愛観の共通点について。
          
これから、『片腕』と『みずうみ』における恋愛観の共通点について、両方の作品を比較したうえで、主人公の男性に関する描写、結末の共通点について述べたい。
初めに、『片腕』と『みずうみ』について、自身が感じた通常の男女の恋愛ではないと思う箇所に焦点を当て、比較を行いたい。はじめに、片腕について言及したい。この小説では、片腕を主人公の男性に貸してくれた段階から通常の恋愛とは異なっているが、男性が理想とする女性像のようなものが反映されているのではないかと感じた。例えば、片腕は主人公の男に従順であることなどである。また、初めて男の物になったかのような描写がある部分にも理想像が反映されているのではないかと感じた。具体的には、『(中略)私の肩につけられて、私の右腕となった今、はじめて自分のことを「あたし」と言ったようなひびきを、私の耳は受けた』(片腕、p33)という箇所である。この小説では、一般的恋愛小説のように男女間のやりとりや心情に焦点を当てるよりも、片腕を観察し、理想化していると感じた。
次に、『みずうみ』について言及したい。 この小説は、一言で説明するならばストーカー小説である。内容としては、銀平という教師が生徒と恋仲になってしまい、クビになったものの、懲りずに美しい女性を見ると追いかけてしまうというものである。しかし、銀平は女性を追いかけることにあまり罪の意識を感じていないように私には感じられた。また、追いかけられた女性の一人も年寄りと愛人関係になっていながら、銀平に追いかけられることを嫌がらないなど、通常の恋愛小説とは異なると感じた。
最後に、共通点について言及したい。まず、どちらの小説でも、主人公は男性で、男は醜く描かれているのである。たとえば、片腕に関して述べれば、『(中略)清純な女の血が私のなかに流れこむのは、現に今、この通りだけど、私のような男の汚濁の血が娘の腕にはいっては、この片腕が娘の肩に戻る時、なにかがおこらないか』(片腕、p38)という箇所である。みずうみに関して述べれば、湯女に身体を洗ってもらっている際など様々な場面で銀平の足が猿の足のように醜いことなどが描かれている。また、最終的には、片腕は男のものにはならず、みずうみでも、どの女も追いかけるだけで終わり、銀平のものにはならないところも共通点といえる。
 以上の点から、『片腕』と『みずうみ』は扱うテーマは違うものの、通常の恋愛小説とは異なる点が多々あり、共通点もいくつかあるといえるのである。



『ちよ』と『処女作の祟り』からみる川端康成のちよに対する想いについて。

これから、『ちよ』と『処女作の祟り』について、川端の恋愛観について自身の見解を述べたい。
『ちよ』という小説は、一度は結婚を受け入れてくれた伊藤初代との恋が終わってしまったことに影響されて書かれた小説である。この小説では、松氏という男の死と、主人公は会う女性がちよという名前の人ばかりで、ちよに恋焦がれているものの怖れと両方感じている様子が描かれているのである。この小説には、しばしば物語の途中に『千代』と挟まれ、ちよのことを思い出しているように感じられる。また、最初は「千代」と書かれていたのに対し、途中で様々なちよという女が出てくるにつれて「ちよ」というふうに書き分けられているのである。『処女作の祟り』でそれぞれのちよのモデルについて書かれており、実際にももしかしたらモデルになり得る人はいたのかもしれない。しかし、自身の見解としては、『怖れが進むのとならんで、恋に近いこころに進んでゆきます』という描写から、モデルはいても、それぞれのちよに初代を投影させてまだ恋い慕っているのではないかと考える。
さらに、この小説からは、対立する感情がうかがえるのである。例えば、『この頃、心臓がだんだん弱々しく感じ易くなっていきます。(中略)私はこれが、狂ってない頭で話す最後のように思えてなりません。』(p57)のように、恋が成就せず落ち込み、弱っている様子や、恋が成就しなかったことに対する憤りや悲しみのような感情を、呪われているといった風に書くことで吐き出しているのではないだろうか。一方で、『「ちよ」が一寸でも笑顔を見せてくれたら、とびついてその前に身を投げ出すにきまっています』というように、千代のことを忘れられない様子も描かれているのである。
 しかしながら、『処女作の祟り』でも、伊藤初代という女性のことが影響しているはずだが、その名前は出てこないのである。また、白木屋の娘が吉村ちよ子という名前だったために『ちよ』という小説を書いたと述べられており、伊藤初代をモデルにしていると思われるが、土地の人に結婚を世話されそうになった別の女性もちよ子という名前であり、実際にはどのそのちよ子が伊藤初代をモデルにしているのか分からないと感じた。だが、『処女作であの女の運命を縛りつけた』(p66)と書いていることから、初代への未練や憤りのようなものは『処女作の祟り』を書いた時点になっても感じていたのではないかと感じた。
 以上の点から、川端は初代に対して憤りや悲しみのようなものを感じているものの、恋心を抱き続けていたと考えられる。


~怪談集一から三における心理描写について~
これから、三つの怪談集について、それぞれの物語の自身の解釈を述べた上で、三つの物語の特徴について述べたい。
 まず、怪談集一について述べたい。この物語では、全体が禅問答のような形式であることと、和尚は全てを知っているような様子であるが特徴といえるだろう。女は夫が死んだことを喜んでいたのか、悲しんでいたのか、実際の所は分からないが、和尚が通った時に女は嘘泣きをしていたのに対し、若侍が通った時は本泣きをしていたという箇所は、女の心の移り変わりを禅問答という形式に沿わせて書いているのではないだろうか。さらに、墓石から血が出て、武士が刀を抜き取ると墓石には何の跡もついておらず、武士の刀だけは折れてしまったが、それについても和尚は知っていたような様子である。
 次に、怪談集二について述べたい。主人公の男は、妻を極度の愛したため、妻の死後は全ての女を遠ざけるものの、一番妻に似ている娘だけはどうすることもできないでいるのである。しかし、娘について『どうすることも出来ない女の存在』(p71)といった箇所や、『彼は娘を愛していなかった』(p72)という箇所があるが、もしも愛していなければ、男は娘の部屋を覗き見ないはずである。また、娘が泣いている描写から、本文には書かれていないものの、男は娘に肉体的関係を迫り、その結果として娘は男を殺すに至ったのではないかと考えた。そして、もしそのように推測するのであれば、本文には一人の女を愛しすぎた天罰だと考えて男は殺されることを悟っているように書かれているが、男が殺されるに値する理由を知っていて、覚悟していると辻褄が合うと考える。
 次に、怪談集三について述べたい。一見老人は良いことをしているものの、実際は無知な村人達から村の温泉や自然豊かな土地などを搾取しているともとらえられるのである。なぜなら、温泉の古い元湯はぬるくなってしまい、しまいには落ち葉に埋れてしまったのである。また、老人の息子が『おかげで親父のような詐欺はしないですむのだ。』(p75)という箇所や、老人が造った道に対して『僅か自転車が通るくらいの路だ。(中略)今のうちに大きい眼を明いて、自動車の通る街道の意志をよく考えておけ。』から、息子は老人が慈善と思わせておいて搾取を行っていたことや、老人の造った道では村の発展には役立たないことを見抜いているといえるだろう。
 以上の点から、怪談集一と二に共通することは、どちらにも物事の今後の成り行きや結末を主人公が見通していることである。それに対して三では、搾取されている側の村人達は搾取されていることに気づいていないことが特徴である。そして、老人の息子が現れ、事実を述べていることに対して批判を加えるのである。そのため、怪談集とくくられているものの、一、二と三では登場人物と主人公の関係に相違点があることが分かる。

         

『心中』における夫と妻子の関係性について
これから、『心中』について、妻子の心中を発見して夫も心中したのか、夫が妻子を殺して自分も死んだのか、という二つの可能性について、話の概要と妻の夫への愛について考察した後に考えていきたい。
まず、この話しでは、主人公である女性の元に、彼女を嫌って逃げた夫から手紙が届き、果ては夫も、女性も娘も心中をするという話しである。夫は彼女を嫌って逃げたが、彼女は夫をまだ想っていることが分かる。なぜなら、もしも夫の心臓が破れようと自分には関係がないと考えていれば、そもそも忠告に従わないからである。それにも関わらず、妻は遠い土地から来た夫の手紙に忠実に従っているのである。また、娘が出してきた自分の茶碗を投げつけた際に、その音が夫の心臓が破れる音なのではないかと恐れていることからも、妻はまだ夫を愛していると考えられる。
しかし、なぜ最終的に心中するに至ったのか、なぜ妻を嫌って逃げたはずの夫も枕を並べて死んでいたのかという点について考察したい。一つ目に考えられることは、最後に夫からの『お前達は一切の音を立てるな。(中略)呼吸もするな。』(p77)という忠告に従って妻と娘が無理心中をした後、夫がそれを発見して一緒に死んだということである。なぜなら、彼女は夫の忠告に従うことで、自分や娘との生活状況が悪い方向に向かっていくことも厭わないほど、手紙の内容を忠実に守っているからである。例を挙げるならば、夫の心臓が破れた音ではないかという恐怖から食卓をひっくり返し、追いかけて来た娘を叩くなど、半分妄想に取り憑かれているような箇所が挙げられるだろう。そのため、『呼吸をするな』ということは死ぬしかないと考えた妻子が心中し、なんらかの事情でやってきた夫がそれを発見し、死んだのではないだろうか。
 二つ目に考えられることは、手紙を出していることから、妻子の住所を知っていると思われる夫が妻子を殺し、自らも死んだということである。なぜなら、妻を嫌って出て行った夫はよほどの事情がない限り家に戻る理由もないと考えられるためである。途中の手紙から、夫の字に急に老いが感じられたという描写があり、娘のたてる音のせいで本当に心臓が踏まれる感覚におそわれて体が弱ったのかは分からないが、体調を崩すなど夫の身に何かあったとも考えられる。その結果、自分の家に戻ることとなり、最初から殺意を抱いていたかは別として、妻子を殺し、自分も死んだのかもしれない。
 以上の点から、夫も共に心中していた理由は、妻子の心中を後追いしたことか、夫が妻子を殺したと考えられる。



龍宮の乙姫と結ばれない恋人達について
これから、『龍宮の乙姫』という作品について、なぜ夫は女をそのまま死なせなかったのか、なぜ感謝の心を起こすと墓石が沈んだのか、そして、なぜ最後に女が昔話と全て同じなのか、という疑問点を三つ述べた上で、疑問点に対する自身の見解を述べたい。
 一つ目に、なぜ後家の女とその恋人に無残に殺された夫は、冒頭で『(中略)女にわが墓石を抱かしめて海に葬れ。』と言って死んだにも関わらず、女をそのまま死なせなかったのだろうか。女とその恋人に殺されたなら、憎いはずであり、そのまま海に沈ませるのではないだろうか。また、男には女を追いかけさせられないようにそのまま沈めてしまえばよかったのではないだろうか。
 二つ目に、なぜ感謝すると墓石が沈むのだろうか。女が恋人である男に『感謝の心を起こした時あなたの船は墓石になりますよ』と言っている間に船が墓石に変化して沈んでしまうのである。そして、男が自分だけ沈むことに腹を立てて殺した女の夫に頼むと浮かびあがってはこられたが、女とすれ違ってしまうのである。通常であれば、感謝した者は浮かびあがりそうなものであるが、逆である所が不思議な部分である。また、男が自分の殺した女の夫に頼むと、途中から浮かびあがってくる場面があるが、なぜ自分を殺してにくいはずの男を助けるようなことをしたのだろうか。
 三つ目に、なぜ、最後の部分で女が『昔話とおんなじでしたわ。おしまいまですっかり』と言ったのかという点について考えたい。まず、おとぎ話では、最後に女だけ海の底に夫の墓石とともに沈み、男だけは浮かびあがってしまうのである。また、現実では、恋人とともに海に飛び込んだものの、恋人の男だけ死んでしまうのである。そして、夫に抱きついているのである。そのため、結局は、おとぎ話では死して、現実では生きて女は夫の元に戻ることになるのである。そのため、『おしまいまですっかり』同じとはいえないが、結末としては女が話した昔話と同じような展開になっているといえる。
 以上の点から、おとぎ話ではあえて恋人の男を追ってこさせて、墓石を浮かび上がらせてやることで、男は生き、女だけ沈んで死んだ夫のところへ行く、という結果なのではないかと考える。現実でも、女だけ生きて結局は夫の元に戻ることになっているのである。



『白い満月』と死生観について
これから、『白い満月』について、情景描写が生み出す効果及び、作品の中に見られる死生観について述べたい。
まず、特徴的な情景描写としては、主人公が谷川で鮎釣りをしている場面など、世俗から離れている感じがすることであると感じた。また、お夏の父親が死ぬのが分かったことや、主人公がお夏の父親ではなく、静江が死んだのではないかと感じ取る怪談的要素を感じさせる場面も存在する。しかし、世俗から離れているかのような描写によって、怪談的要素が違和感なく組み込まれていると感じた。
次に、この作品に垣間見える死生観について言及したい。この作品は死に縁取られた中に生が存在すると感じた。例えば、お夏の母親や主人公の両親は既に死んでいることなどである。また、物語の途中でお夏の父親や、静江も死ぬのである。さらに、お夏が最後に自分の死ぬ夢を見た点や、主人公がとてもやせ細っている点は彼らの死を予感させるのである。
これらの死を連想させる中で、生を連想させるのが八重子であると感じた。この小説を読んだ際に、八重子だけが俗っぽく、浮いた存在に感じたが、それは八重子が生を象徴しているからではないだろうか。八重子はお夏の悪口を言う点や、お夏が姉と北海道へ旅立った際にお夏を追い出してくれと兄に頼んでいる点などから、兄に対しても勝気に接しているように感じられる。また、静江の自殺についても、主人公は八重子が関係していると考えているのである。さらに、主人公は八重子にとって妹の静江は紙屑籠のようなものであったが、静江に嫉妬したために、それを壊してしまおうとしたのではないかと推測しているのである。これらのように、八重子については人間の醜い部分も書き出しているのは生の存在を表しているからではないかと感じた。
 一方で、主人公とお夏の関係を見ていると、死の中にも、明るさが存在しているように感じる。例えば、主人公のお夏に対する印象の変化である。最初はお夏の目が濁っており、父親から受けた悪い遺伝を感じさせることや、異常に発達した太い胴と腰といった描写など、あまり見た目などに対して好印象を抱いていないように感じる。しかし、『私はお夏を愛してはいなかったけれども、お夏は私に一人の女を愛することの有難さを空想させ(中略)』(p122)という箇所や、お夏が父の死を話している姿を痛ましく思うなど、お夏に対する印象が良くなっているといえる。さらに、最後に、自分は死ぬかもしれないというお夏を主人公が抱きしめる箇所や、お夏も主人公の夢をよく見ると発言する箇所など、恋とも愛情ともいえる描写が存在するのである。
これらの点から、『白い満月』では情景描写によってストーリーに違和感を持たせない点や、生死、主人公のお夏の愛情などが物語に深みを与えていると感じる。



『抒情歌』と抒情詩によって立ち上がる龍枝
これから、『抒情歌』について、文体の特殊性、主人公である龍枝が恋人の死を乗り越えていく過程の心情について考察したい。
まず、特徴的な文体について言及したい。この物語は、女の独白であるため、語り手は主人公の龍枝である。また、龍枝を捨てて、そのあと死んだ元恋人に対して宛てた手紙のようであり、女性の言葉遣いで男や読者に語りかけているような所が特徴的であると感じた。
 次に、龍枝の心情の移り変わりについて自身の感じたことを述べたい。自分の愛していた男と結婚した綾子という女を恨む気持ちや、苦しみ、悲しみが読んでいて伝わってきたが、仏法の経文を抒情詩と思い、救いを求めている様子が伝わってきた。また、龍枝は抒情詩に救いを求めながらも、男との愛の証について思い出しているのである。例を挙げるならば、半ば神がかったように、同時に同じことを言い合ったことや、龍枝がまだ男を見ない前から夢に見ていたこと、男が食べたいと思ったものを夕食に作っていたといったことなどである。そして、『恋人のあなたが私をお棄てなすったのも、あなたと私の間に余りに愛のあかしばかり満たされていたからでしょう』(p183)という箇所では、自分で自分を納得させ、慰めているように感じた。さらに、龍枝は男と一緒に居た頃は、一本の半襟や甘鯛など、ありふれた日常のことに『しあわせな女らしいあいのこころ。通わせることができた』(p198)。しかし、男を失ってからは花や小鳥のさえずりすら味気なく、むなしく感じるようになってしまったのである。恋をして幸せな時期の楽しさと、それを失ってしまった時の喪失感や、『失った愛の心』(p198)を悲しんでいるとてもよく表していると感じる。このように嫉妬や悲しみに龍枝は苦しみながらも、神話にでてくるアネモネの花は、宮廷から追い出され、泣き明かしたものの、『この世があるかぎり美しい草花として生きよう』(p196)という話を読み、いっそアネモネの花のようになりたいと思うようになっていく。
また、輪廻転生の抒情詩によって、徐々に天地万物を愛する心をとりもどしていくのである。それでも、なぜ男と綾子の結婚や、死を悟れなかったのかと悔やむなど、龍枝がもがき苦しむ様子が克明に描かれていると感じた。このように、龍枝が苦しみながら抒情詩に救いを求め、自分の気持ちに区切りをつけていく過程は詩のような短編的なものではなく、歌のように続いていくものであるため、本文では『抒情詩』という言葉が使われているにも関わらず、題名は『抒情歌』なのではないかと感じた。
 以上の点から、『抒情歌』は龍枝が男に語りかけているような文体が特徴的である。また、抒情詩によってもがきながらも気持ちに整理をつけていく龍枝の姿が克明に描かれていると感じた。



『花ある写真』とみさ子の苦しみについて。
 これから、『花ある写真』について、怪奇現象と卵巣を取られたみさ子の心情の関連性及び卵巣を取った後のみさ子の心情について自身の見解を述べたい。
 まず、怪奇現象と卵巣を取られたみさ子の心情との関連性について、自身が感じた点を述べたい。この物語を読んだ際、みさ子の周りで起こる怪奇現象は、みさ子が卵巣を取ること、そして取ったに対する悲しみや苦しみによって起きているのではないかと感じた。なぜなら、卵巣とは『女の魂』(p171)のような器官であり、女性にとって大切な器官である。女性であることの象徴であるという点もあるが、ただそれだけではなく、自分の子供を作るという点で、自分が自分であることを証明するための器官であると感じる。多くの女性は、他の臓器を取るよりも、卵巣を取ることの方が苦しいことであると考える。ましてや、まだ十七歳という若さで卵巣を取ることになれば、事情があったとしても辛さは尋常ではないだろう。
 次に、卵巣を取った後のみさ子の心情について、自身が感じたことを述べたい。冒頭に、以前は卵巣を取ったいとこが急に太り、そして今度は急に痩せ、どす黒い女になってしまったという描写がある。これは、みさ子もいずれそうなるかもしれないという暗示ではないだろうか。みさ子は主人公に引き取られたあと、いつも綺麗に女らしい桃割髪に結っている。しかし、主人公が懸念している通り、これは焔の消える前の美しさのようであり、いずれみさ子も女らしさを失うのではないだろうか。また、みさ子もそれを知っているからこそ、女らしくし、主人公を道まで出迎えに行くのではないだろうか。
 また、みさ子が卵巣を取り、令嬢にあげることになった経緯については詳しく書かれていないが、みさ子は自分の卵巣を令嬢にあげたことを知っていたのではないだろうか。なぜなら、卵巣をあげた令嬢の婚礼の記事が載った新聞だけが、みさ子の寝床の上を飛び回っていたからである。また、その寝ているみさ子の顔に主人公は澄み通った悲しみを見出しそうになったのである。この現象は、卵巣をあげてしまったことに対する悲しみや、令嬢に対する羨ましさの現れではないだろうか。
 以上の点から、この物語にはみさ子が卵巣を取った悲しみや苦しみが全体を通して描かれていると感じた。


  『無言』と『地獄』における無言であることのもたらす効果について。
これから、『無言』と『地獄』について、無言の生者と無言ではない死者の対比及び、両者における無言であることがもたらす効果について自身の見解を述べたい。
まず、『無言』において大宮明房という小説家は身体が麻痺しており、舌も麻痺しているが、文字を書けそうなものなのに書かず、ずっと無言である。娘の富子を通しては意思表示のようなものをするが、果たしてそれが本当に老人の意思なのか、それは主人公にも読者にも分からず、老人にどのような意図があるのか考えさせられる。つまり、明房老人は、生きているのに無言なのである。また、主人公は老人を見舞ったあと、なじみの運転手から女の幽霊の話しを聞く。その幽霊もやはり無言であるが、いつの間にか車に乗って、鎌倉で降りるため、主人公や読者にこの幽霊が一体誰なのか、何の目的で車に乗るのか、といった考えを抱かせる。また、空車にしか出ないはずの幽霊が、なぜ最後に主人公が車に乗っているにも関わらず出たのか。『無言ほど多くを語る言葉はない』(p246)とあるが、無言であることの裏には何が隠れているのかを考えさせられた。
 一方、『地獄』では死んだ主人公、村野が幽霊となって、度々西寺という友人の元に会いに来て話すのである。『無言』では明房老人は生者であるにも関わらず無言であったが、『地獄』では死者であるはずの村野はよく話すという描写が対照的であると感じた。また、その過程で、村野の妹である辻子の死の真相や、西村と辻子に肉体関係があったことが明らかにされる。しかし、辻子がなぜ死んだのかは最後まで分からず、死人に口無しともいえる。やはり『無言』と共通して、辻子の死について分からない部分があるからこそ、多くのことを読者や、その他の登場人物に推測させるのであると感じた。
以上の点から、『無言』と『地獄』では、無言の生者と物を話す死者の対比がなされていると感じた。また、『無言』では無言であるにも関わらず、様々な背景を読者に想像させる。一方で、『地獄』では、死者も物を言い、物語の真相が明らかにされるのであるが、結局なぜ辻子が死んだのかは語られないままである。そのため、両作を読了した際、改めて『無言ほど多くを語る言葉はない』(p246)と感じた。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2014年8月10日
読了日 : 2014年8月10日
本棚登録日 : 2014年6月16日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする