天璋院篤姫 下 (講談社文庫 み 9-5)

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  • 講談社 (1987年11月1日発売)
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(2008.02.24読了)
篤姫は、島津斉彬に徳川家定のあとは、一橋慶喜を後継とするようにと言い含められて輿入れしたのですが、紀州の慶福(後の家茂)と一橋慶喜に直接対面してみた結果、慶喜は将軍にふさわしくないと判断し、一橋慶喜を後継として押すことをやめてしまう。
1858年4月23日、井伊直弼大老に就任。6月19日、日米修好通商条約に調印。
6月25日、将軍継嗣は徳川慶福に決定と公表。(11頁)
「島津藩主、島津斉彬公が去る7月16日早暁、薨去遊ばされました」と薩摩よりの使者から伝えられたのが、7月28日。(29頁)
「将軍家定公、去る7月6日、ご持病の脚気にて薨去遊ばされました。先例にのっとり8月8日、喪を発表いたしたく存じ上げます」と告げられたのが8月1日。(39頁)
将軍家の墓所は、上野寛永寺と芝増上寺と二つあり、将軍薨去の際、毎度熾烈な争いをする。家定は、上野寛永寺と決まった。(47頁)
家定の葬儀の頃には、井伊大老の安政の大獄が始まっていた。安政の大獄の直接のきっかけは、朝廷から水戸藩に幕府討伐の勅諚が下りたことだった。(48頁)
8月末、幾島は、三毛の子猫を連れてきた。猫はさと姫と名づけられて、篤姫を慰めてくれることになる。さと姫は16年生きた。(51頁)
10月25日、朝廷からの将軍宣下が下り、家茂(徳川慶福)は14代将軍に就いた。(63頁)
1860年3月3日、桜田門において井伊大老、水戸浪士によって殺害される。(71頁)
幕府に攘夷を実行してもらうため、皇女和宮と将軍家茂の婚儀が進められ、1962年2月に挙行された。
和宮は、輿入れの条件として、入輿後も御所風を遵守すること、御所の女官を随従させることを上げていたこともあり、武家風と御所風で何かと対立が絶えなかった。
和宮の母親も付いてきているので、融和を図ることは、並大抵のことではなかった。
(下巻の大部分は、和宮と篤姫の話で埋められています。火事と喧嘩は江戸の華と謳われたように、江戸城も江戸の火事の類焼で、何度も焼けているようで、和宮と篤姫も何度も焼け出されています。)
1866年7月20日、長州征伐に出かけていた家茂が大阪城で病のため死亡。21歳の生涯を閉じた。家茂は、後継に田安亀之助を指名していたが、一橋慶喜を押す声が強く、15代将軍には、一橋慶喜が就いた。
篤姫は、一橋慶喜を将軍にふさわしくないとして、反対したが、受け入れられなかった。篤姫は、最後まで、一橋慶喜を受け入れず、後々まで、一橋慶喜との行き来を禁じた。
篤姫の危惧の通り、徳川慶喜の将軍らしからぬ行動で、幕府は大政奉還し、明治へと変わる。大きな混乱もなく政権が交代したことを徳川慶喜の功績とすべきか、ふがいなしとすべきかは、なんともいいがたいところです。
江戸城明け渡しのときの様子、明け渡し後の篤姫の様子なども興味深く読みました。
江戸城の無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の会見で決められたと聞いたように思うのですが、「旗本の山岡鉄舟が勝海舟の手紙を持って駿府の大総督府に西郷参謀を訪ねた」(280頁)ということは書いてあるのですが、勝と西郷の会見の話しは出てきません。
1883年11月20日、篤姫は48歳の生涯を閉じた。
(2008年2月26日・記)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 篤姫とその周辺
感想投稿日 : 2010年3月7日
読了日 : 2008年2月24日
本棚登録日 : 2008年2月24日

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