キャパの十字架

著者 :
  • 文藝春秋 (2013年2月19日発売)
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感想 : 129
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沢木耕太郎にとって、ロバート・キャパが特別な1人であることは間違いない。
自分と似ていると感じ、折りに触れ、20年以上かけて追い続けることになった写真家であり、「崩れ落ちる兵士」は本当に撃たれているのかという謎を、いつか決着をつけねばならないと感じるほどに。

しかしこれを読み終えた今、兵士は本当に撃たれているのかという謎は、私にとっては最早瑣末と言ってもいいくらいのことになってしまった。キャパが背負った十字架はそんなもの(と敢えて言う)ではなく、もっとずっとずっと重たいものなのだった。

高村光太郎と智恵子、スコット・フィッツジェラルドとゼルダ、というように、夫に勝るとも劣らない溢れる才能と意欲と野心もありながら、それを押さえて、影とも言える位置を時には選び、時には選ばざるを得なかった妻は、実はかなり多いのではないか。
「一家に芸術家は2人はいらない」という言い方があるけれど、才能溢れる2人は、その才能が故に惹かれ合いもするけれど、その才能が故にどちらかが我慢も強いられ、そしてそれが妻のほうであることは決して珍しくないのではないか、と思う。

切磋琢磨し合って創作活動に励んでも、お腹が空いた時にその手を止めてご飯を作らなくちゃならなかったり、赤ん坊が泣いた時に面倒を見に立ったりするのも、果たして同じ回数だろうか。同じだけの負担だろうか。
たぶん妻のほうに、より負担がかかりより我慢を強いられることが多いであろうことは、想像に難くない。

結婚こそしていなかったが、キャパとゲルダにも、どこかそのような傾向がありはしなかったか。
少しずつ認められていくと共に、ゲルダの野心が膨らんでいくのは当然のことであり、キャパは望むと望まないとに関わらず、ゲルダにとっての枷になっていきはしなかったか。

112ページの、同じシチュエーションをキャパとゼルダが撮った2枚の「共和国軍兵士の二人」の写真を見て、私は身震いする。
たまたまの偶然なのか、見ている私の勘違いなのか、全く自信はないけれど、ゲルダの撮った写真のほうが「いい」と感るのだ。もしかしたらゲルダのほうが才能豊かだったのではないか。

キャパは「波の中の兵士」を撮ることで、かつての「崩れ落ちる兵士」に決着はつけただろうと思うが、ゲルダに対しての決着はつかないままだったのではないかと思う。

1936年、ハンス・ナムートが撮った写真に写り込んだキャパとゲルダの後ろ姿に、胸を突かれるような思いがする。
逃げている村人と逆方向に向かって(つまり戦場に向かって)歩いて行く、20代前半のまだ若い2人。
肩を並べて、危険へ向かって歩いて行く。
後ろ姿のゲルダは、キャパよりもむしろ昂然と胸を張って、運命に向かって行っているように見える。

“写真は嘘をつく”が、また、写真には力がある。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 林檎の木
感想投稿日 : 2013年2月18日
読了日 : 2013年2月19日
本棚登録日 : 2013年2月18日

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コメント 1件

猫丸(nyancomaru)さんのコメント
2013/02/19

「ゲルダに対しての決着はつかないまま」
判る気がする。。。

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