あまりのぶ厚さに手を出しかねていたが、読み出したらやめられなかった。これは労作にして傑作。「死の棘」の妻島尾ミホの人物像に迫ることで、従来の作品観に敢然と異議を申し立てている。筆者の論は、長期にわたる地道で粘り強い取材に裏打ちされていて、圧倒的な説得力がある。
「死の棘」が他の私小説から抜きんでた評価をされてきたのは、その前日譚があったからこそではないだろうか。特攻隊長として南の島にやってきた男と、村長の娘である美しい少女との恋。それは予想されていた「死」では終わらず、二人は結婚し、やがて修羅の日々を迎える。
著者は、そのほとんど神話となった二人の出会いから、事実はどうであったのか、島尾敏雄やミホ、そして周囲の人々が何を思い、どう行動したのかを丁寧に検証していく。まずここが非常に刺激的だ。このときミホは二十五才、東京の女学校を出た後島の代用教員をしていて、決して「南の島の素朴な少女」などではなかった。
ここを皮切りに、従来定説となってきた解釈に疑問が呈され、語られることのなかった時期の実像が掘り起こされていく。島尾敏雄の愛人のこと、ミホの実父のこと(ミホは実は養女でそのことを語ろうとはしなかった)、養父母への愛着、中断されてしまった長編小説…。次第に浮かび上がってくる姿は、「求道的な私小説作家と、そのミューズ」というイメージからはかなり隔たっている。
感嘆するのは、そうして二人の実際のありようを(特にミホは書かれたくなかったであろうことを)明らかにしながら、筆致がまったく暴露的ではないことだ。雑誌での著者インタビューなどを読むと、これを書くことにかなりためらいがあり、出版後もなお葛藤があるそうだが、これはやはり「書かれるべき物語」だと思う。本書ではしばしば、「書くこと」「書かれること」についての言及があり、書いたり書かれたりすることで人生が変わっていくことへの、懼れに似た気持ちが述べられている。私はここに「書く人」としての著者の覚悟と誠実さを強く感じた。
「死の棘」とこれに関連する小説のほとんどすべての内容は実際の出来事であり、島尾敏雄がずっとつけていた日記が「ネタ」だったそうだ。それを知ると、考えずにはいられないのが、当時六歳と三歳だったという二人の子どものことである。「死の棘」に書かれた地獄のような狂態は、幼い二人の目の前でのことであった。小学生のときしゃべることができなくなったというマヤさんは、若くしてガンで亡くなったそうだ。胸が詰まる。
(私は「私小説」が好きではないが、その理由の一つは、私小説にはしばしばこういう、「自分」だけにかまけて庇護すべき弱いものに無頓着だったり、むしろ進んで害を与えたりする人が描かれるからだ。それが人間の「業」だとは思えない)
長男の伸三さんは、この本のために取材を申し出た著者に対し、「書いてください。ただ、きれいごとにはしないでくださいね」と言ったそうだ。どうしたらこういう言葉の出る人になれるのか。頭を垂れるしかない。
- 感想投稿日 : 2017年9月8日
- 読了日 : 2017年9月6日
- 本棚登録日 : 2017年9月6日
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